旭塚古墳 現地説明会

古墳時代終末期巨石墳・竜山石(たつやまいし)検出
旭塚(あさひづか)古墳とその周辺
確認発掘調査の成果と説明のひととき

2007年11月17日(土)午後2時〜4時
芦屋市教育委員会(生涯学習課文化財担当)

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※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

目次

目次を生成中です・・・

はじめに

みなさん,こんにちは。本日は,本市教育委員会の発掘調査現地説明会にご参加いただきありがとうございます。秋晴れの今日一日,今から1400年前の古墳時代,飛鳥時代へとタイム・スリップして,郷土芦屋の歴史や古代文化の一端に触れていただきたいと思います。足元には十分注意して頂き,楽しくロマンにあふれたひとときをどうかお過ごし下さい。さあ,タイム・トンネルをくぐりましょう。

今回公表の発掘調査について

みなさんにご覧いただきます今回の発掘調査現場について,要点を下記のとおりまとめておきます。 概要をお知りになってから,具体的な調査成果をみていきたいと思います。

所在地 兵庫県芦屋市山芦屋町23番
調査主体 芦屋市教育委員会生涯学習課(文化財担当)
調査目的 宅地造成に伴う確認発掘調査(旭塚古墳他保存地区の範囲確認)
調査担当者 森岡秀人(芦屋市教育委員会生涯学習課文化財担当主査・学芸員)
坂田典彦(芦屋市教育委員会生涯学習課文化財担当嘱託職員・学芸員)
調査期間 平成19年7月1日〜11月30日(予定)
敷地面積 7438.01m2
調査内容 旭塚古墳(古墳時代終末期)を中心とする城山古墳群や徳川大坂城東六甲採石場(とくがわおおさかじょうひがしろっこうさいせきば)(江戸時代前期の城山石切丁場(しろやまいしきりちょうば))の民間宅地造成計画に伴う依頼による事前確認発掘。
 

3.今回の調査地と周辺の遺跡

今回の調査地には,城山古墳群と徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群が分布しています。六甲山地南麓の段丘(だんきゅう)上に立地しており,標高は約70〜85mを測ります。調査地点の周辺をみると,北方には鷹尾山(通称城山)や城山南麓遺跡,西方には山芦屋遺跡(縄文時代)が近接して存在しています。

(1)城山古墳群(大字城山・山芦屋町一帯)

古墳時代後期から飛鳥・白鳳文化期(6世紀後半〜7世紀後半)の群集墳です。円墳中心で,主な埋葬施設は横穴式石室です。芦屋川の支流である高座川を挟(はさ)んで,西方には6世紀前半から造墓(ぞうぼ)活動を開始する三条古墳群が分布しています。ただし,高座川は付け替えられた河川とも考えられています。

当古墳群では,これまでに山芦屋古墳・旭塚古墳・第3・4・10・15・17・18・20号墳など10基程度の古墳が発掘調査されています。それらの特徴は,阪神地方では珍しい巨石墳(きょせきふん)・終末期古墳・多角形墳・竪穴系石室墳(たてあなけいせきしつふん)などで,異色なものが数多くみつかっています。さらに,耳環(じかん)など装身具の多い八十(やそ)塚(づか)古墳群とは異なり,武器・馬具の副葬が顕著で,篭形土器(かまどがたどき)をもつ古墳も4例あります。これは兵庫県下の8割近くを占めるものです。これらの諸特色から,本古墳群の被葬者は,当地域に本貴地を有する渡来系氏族である可能性が高いと考えられています。

なお,この時期の集落跡は,芦屋川右岸の扇状地を中心に立地する月若・芦屋廃寺(つきわかあしやはいじ)・寺田・西山町(にしやまちょう)・三条岡山(おかやま)・三条九ノ坪(きゅうのつぼ)・冠(かむり)などの諸遺跡で見つかっており,6〜8世紀の人口密度も高いところです。

(2)徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群(大字城山・山芦屋町一帯)

徳川大坂城東六甲採石場は,江戸幕府によって元和6年〜寛永6年(1620〜1629年)にわたって推進された大坂城再建事業に伴う石垣用石材の採石場跡(石切丁場)です。六甲山地南東麓地域(西宮市西部〜神戸市灘区)の東西約7kmにわたって分布しています。また,刻印石(こくいんせき)の内容や分布をもとにして,6つの刻印群(東方から甲山(かぶとやま)・北山・越木岩(こしきいわ)・岩ケ平・奥山・城山刻印群)に細分されており,その中で芦屋市域に分布するものは,東から岩ヶ平・奥山・城山の3つの刻印群です。

調査地を含む城山刻印群は,芦屋川西岸の城山山塊に分布しています。これまでの調査で,著名な採石大名などとかかわる刻印石や矢穴石(やあないし),割石(わりいし)がみつかっています。刻印の種類から,日向佐土原藩島津(ひゅうがさどばるはんしまづ)右馬頭忠興(うまのかみただおき),豊後臼杵藩稲葉彦六典通(ぶんごうすきはんいなばひころくてるみち)・稲葉民部少輔一通(いなばみんぶのしょうゆうかずみち),丹波福知山藩稲葉淡路守紀通(たんばふくちやまはんいなばあわじのかみのりみち)らの石切丁場跡があることが明らかにされています。矢穴は元和(げんな)〜寛永期特有の大きなものです。

(3)城山南麓遺跡(大字城山・山芦屋町一帯)

城山(しろやま)には弥生時代中期末から後期初頭(紀元前1世紀〜紀元1世紀)の高地性集落である城山遺跡が存在しています。その山麓部に位置する城山南麓遺跡においても同時期の集落跡が確認されています。準高地性の遺跡の一つです。争乱に関係した集落と考えられています。城山古墳群とも重なります。

時代が下り,室町時代(16世紀)になると,摂津豊島の土豪(どごう),瓦林政頼(かわらばやしまさより)が鷹尾山(たかおやま)(通称,城山)山頂に鷹尾城を築きますが,城山南麓遺跡のこれまでの調査でも同時期の建物跡や火葬墓などが検出されています。これらの遺構の性格は,山城(鷹尾城)と対になる平城(ひらじろ)(日常居館)と考えられています。

城山遺跡(大字城山一帯)

山頂尾根部に点々と土器や石器が確認されており,一部発掘を行ったところでは竪穴住居跡がみつかっています。西方の尾根上に存在する会下山(えげのやま)遺跡(兵庫県史跡第1号)と並んで,近畿地方を代表する典型的な弥生時代高地性集落の一つです。中河内地域とも深い交流があったようです。

山芦屋遺跡(山芦屋町)

芦屋川と高座川(こうざがわ)の合流点の北方,標高80m前後の段丘上に立地しています。これまでの調査では,縄文時代早期〜後期(今から約10000〜4000年前)の土器や石器が多数出土しています。遺構では,早期末(今から約9000年前)の石囲炉(いしがこいろ)や中期末〜後期初頭(今から約4500年前)の竪穴住居跡1棟などが検出されています。関西地方では有望な縄文遺跡の一つです。押型文文化期(おしがたもんぶんかき)は標式にもなっています。

また,弥生時代中期後半(紀元前1〜2世紀)の焼失竪穴住居跡1棟や,配石(はいせき)遺構なども検出されています。会下山や城山の山裾にも同時期の集落が存在したようです。

城山古墳群および旭塚古墳の調査・研究の流れ

六甲山地の南麓,芦屋市西部に存在する城山古墳群は,西に隣接する三条古墳群や市街地東部に存在する八十塚古墳群と並んで,阪神間有数の古墳時代後期〜終末期の群集墳の一つです。今から1400年前の当時は数10基の古墳があったと推定されますが,現在残っているものは少なく,発掘調査を行った古墳も僅(わず)か10基ほどです。以下では,戦後になって調査が行われた古墳について説明します。

旭塚古墳

現在,確認調査を進めている古墳です。かつては,旭化成株式会社社宅内に所在した大型横穴式石室填で,昭和36年(1961)に京都大学文学部考古学研究室が発掘調査を実施しています。発掘担当者は小林行雄氏で,大学院生として小野山節氏らが参加しています。調査終了報告によれば,「両袖式(りょうそでしき)の横穴式石室墳で,天井石(てんじょういし)全部と側壁(そくへき)の一部は既に失われていました。羨道(せんどう)は南に開口し,羨道入口部から化粧石(けしょういし)が両側にまわる円墳(えんぷん)」とされています。その後,武藤誠氏や村川行弘氏が『新修芦屋市史』本篇(1971)において,調査内容を再録し,『新修芦屋市史』資料篇1(1976)では,勇正広・藤岡弘両氏が記録や略測を手懸りとして,両袖式の石室は,全長11m,玄室(げんしつ)長4m,玄室幅1.8m,羨道(せんどう)幅1.6m,石室現存高2.2mととらえ,墳形も外護列石(がいごれっせき)の裾線(すそせん)をたよりに方墳(ほうふん)と推定しています。

また,出土遺物については,須恵器高杯(すえきたかつき)3個体,蓋(ふた)2個体分の破片が若干量と銑鉄(てつぞく)1本があったことを記すものがみられますが,これまでに遺物確認を経ていません。

昭和30年代の調査は内容が公にされていないこともあり,昭和56年(1981)になって武庫川女子大学考古学研究会が墳丘や石室の測量調査を計画,実施しました。調査担当安田博幸教授,助手奥野礼子,調査指導森岡秀人,調査協力藤川祐作のメンバーで,部長岡田良子以下部員学生28名が参加して,墳丘と石室の実測図を作り上げました。その報告書は同大学考古学研究会から部創設20周年を記念し,昭和59年(1984)に刊行され,現在でも公表された測量記録として重宝されています。

今回行っている確認調査は,その後20数年を経てさらに確認が必要なため,実施しているものです。

山芦屋古墳

昭和51年(1976),旭塚古墳の西方約100mの至近地(山芦屋町10−1)から住宅建設に伴い突如として大型石室が姿を現しました。関西学院大学教授であり,芦屋市史編さん委員長であった武藤誠氏を団長として直ちに緊急発掘調査が実施され現在石室は,庭園下に石材ごと地下保存されています。

古墳は直径約25mの円墳と推定され正方形に近い玄室に狭長(きょうちょう)な羨道部がとり付く異色なプランの横穴式石室が調査されました。その規模は,玄室幅3.15m,玄室長3.6m,羨道幅1.7m,羨道残存長5.95m,石室残存長9.55mを計測します。奥壁には重さ30tを超える大石1個を据える超巨石墳ですが,乱掘を受けていました。おそらく県下最大幅の横穴式石室になると思われます。

原位置(げんいち)を保つ遺物はほとんどありませんでしたが,杯身(つきみ)・杯蓋(つきふた)・高杯・細頸壷(ほそくびつぼ)(百済系(くだらけい))・器台(きだい)などの須恵器や水晶製三輪玉(みわだま)・ガラス製棗玉(なつめだま)・ガラス製小玉などの装身具,雲珠(うず)・方形飾金具(ほうけいかざりかなぐ)・留金具(とめかなぐ)・鞍骨(くらぼね)など金銅装(こんどうそう)馬具が出土し,優秀な副葬品目で構成されていたようです。6世紀後半に築造され 7世紀前半にかけて羨道に追葬(ついそう)が行われていたものと考えられます。そして,旭塚古墳と並んで群中では盟主墳(リーダー格の古墳)の位置にあったものと思われます。ただし,築造時期は先行します。

城山4号墳

山芦屋町19-1,-7,-8,旭塚古墳の西北西の方角120mの近接地には,城山4号墳がありました。高座川に面する急斜面でみつかりました。昭和55年(1980)に宅地造成に伴い発掘調査され敷地内で移築保存されました。古墳は標高84mの高座川東岸の急崖面に立地する径約14m,現存高2mの円墳で,奥壁・左側壁の半分と右側壁基底の一部を残すのみの半壊墳です。石室は現存長4.8m,幅1,6m,現存高1.6mを測り,奥壁から3.0mのところに玄門石(げんもんせき)がみられました。

台付長頚壷(だいつきちょうけいつぼ)・短頚壷(たんけいつぼ)・杯身・杯蓋・有蓋高杯(ゆうがいたかつき)・無蓋高杯(むがいたかつき)などの須恵器,鉄鉱(てつぞく)・刀子(とうす)・鉄釘(てつくぎ)・棺金具(かんかなぐ)などが副葬され 6世紀後半頃の築造とみられます。追葬も7世紀初頭〜前半に1〜2回あったようで す。

城山10号漬

城山4号墳と同じ敷地の中央で見つかった古墳で,緩斜面(かんしゃめん)に存在しています。径9〜11mの円墳で,墳丘は低平で,残存高0.7m程です。墳形は方墳の可能性も考えられます。

石室形式は無袖式(むそでしき)で壁体の損傷が著しく,幅1.2m,残存長2.7m,現存高0.8mしかありません。床面には敷石(しきいし)が認められました。須恵器・土師器(はじき)・鉄釘などの遺物が認められ開口部付近では珍しいミニチュア竃形土器が出土しています。築造時期は7世紀初頭以降です。

城山15号墳

山芦屋町6−8の段丘崖上に位置する横穴式石室墳です。径約15mの円墳と推定され,右片袖(かたそで)式の横穴式石室の規模は,石室残存長7.9m,玄室幅1.9m,玄室長3.9m,玄室残存高2.0m,羨道幅1・2m,羨道長4.0mを測り,床面には棺台(かんだい)とみられる右列が設置されていました。須恵器・鉄鏃・馬具・耳環(じかん)などの副葬品と鉄釘が検出されています。副葬須恵器の大半は7世紀代の年代を示し,その多くが追葬時のものと思われます。ただし,築造は6世紀後半にさかのぼります。中世に再利用されていました。

城山17号墳

山芦屋町4,4-1,5,6,6-4の一角に所在する横穴式石室墳で,城山の南東麓,標高90mの斜面地に立地しています。城山15号墳の北西約30mの所に位置し,径約15m,残存墳高2.5mの円墳です。上部壁石の多くと天井石のすべてを失った半壊墳(はんかいふん)です。横穴式石室は,長い袖石(そでいし)で仕切られる右片袖式です。多くの点で,15号墳に先行する要素をもっています。

石室の大きさは,玄室幅1.68m,玄室長3.35m,玄室残存高1.71m,羨道幅1.28m,羨道残存長2.40mで,羨門部を欠いています。石室はおそらく7mぐらいあったものと思われます。副葬(ふくそう)土器は須恵器2点を除き,細片であり,他に耳環が1点出土しています。かなり盗掘にあっています。調査後に消滅しました。

城山18号墳

群中でも最南部に位置する山芦屋町49番地に所在し,標高67mの緩傾斜地に立地しています。墳丘の削平(さくへい)が著しい竪穴系の石室をもつ最末期の古墳で,7世紀後半の築造と考えられます。石室は長さ3.0m,幅1.25mを測ります。副葬土器は原位置をとどめるものが多く,須恵器杯蓋3,杯身3,高杯1,長頚壷(ながくびつぼ)1,土師器杯(はじきつき)1が出土しました。埋葬棺を上から納めたことも考えてよいものです。城山古墳群の造墓活動が新しくなると,南部に下りてくることを証するものです。

城山20号墳

山芦屋町24番1,2,3,4,5,6の斜面地に所在する無袖式の小型横穴式石室墳で,最大幅1.08m,残存長3.1m,残存高0.92mを測ります。石室内から須恵器5点と鉄製品34点が出土しています。墳丘については流失が著しく,その規模や形態はよくわかっていません。単葬とみられるもので,7世紀第2四半世紀以降の築造とみられます。この古墳は旭塚古墳の北東方85mに位置しています。調査後に消滅しました。昨年,芦屋川水車場跡の発掘と同時に調査が行われたものです。

その他

この他,城山の南西斜面には淡神文化財協会が調査を行った城山3号墳があります。多角形の外護石を有する横穴式石室で,ミニチュア竃形土器を副葬していました。7世紀中葉を越えての築造と思われます。

地誌類や大昔の調査記録にみえる城山古墳群

昭和50年代以降の本市教育委員会による埋蔵文化財調査の進展以前,地元に残る地誌(ちし)の類にいくつか注目すべき記述があります。また,大正〜昭和時代には一部調査記録も残っており,往時(おうじ)を知る貴重なものです。以下では,それらも簡単にみておきたいと思います。

明治44年(1911)刊の仲彦三郎編『西摂大観(さいせつたいかん)』には,郡部の巻の「武庫郡(むこぐん)東部」名所旧蹟の項に,「蘆屋村のコンコン塚,三条のシヅメ塚の窟塚の如きは,鷹尾城址の南麓に在るを以て一般の人は城壁なりとの説あるも,此は穴居時代の遺蹟」との記載がみえ,同書の墳墓の項には,三條村の「石窟塚」や「烏塚」の存在が記されています。中でも「烏塚より以西松林中に散在せる阜丘は多く古墳にして,中には主墳とおぼしき周囲には数個の陪塚を有するものあり,或は自然に崩壊して数多の土器の破片散乱せるを見る,如何に往者居民も発展せしやを推想せらるるなり,是等土民の発祥地を破壊して墳石を庭園石垣に用ゆるは遺憾のことといふべし。」などの叙述には興味深いものがあります。

大正10年(1921)刊の『武庫郡誌(むこぐんし)』では,「石窟(せっくつ)は城山の麓にあり。其数二十,太古穴居の遺跡ならんと云い」と記し,石室墳も大昔の住居と考えられたようです。コンコン塚と呼ぶものは,「芦屋の山手,鷹尾城址の南麓にあり。其中二箇は完全に原形を存すれども,ほかは破壊せられて原形を止めず。其東に在るものは他と形式を異にす。穴は東北に面し,一屈折して南に入る。西に在るは普通の形式なれども,南方の羨道は埋まりて蓋石(ふたいし)の一箇墜落せり。之を上方より窺(うかが)ふに,内部は多く損所なく完全に残れるが如し。」と書かれています。

コンコン塚は一つの古墳の固有称ではなく,周辺横穴式石室墳一般の俗称とみられます。民俗的にみても面白い名称です。さらに「此塚より西,高座谷を上る瀧道(たきみち)の附近にも古塚あり。多く朝鮮土器を出せり。然(しか)れども悉(ことごと)く破砕(はさい)せるものにして,一も完全なるものを認めず。」との記述から,その位置関係をある程度類推することができるでしょう。「朝鮮土器」とは須恵器のことです。

戦後には,郷土史家細川道草氏によって『芦屋郷土誌』(昭和38年刊)が著されており,旧三条村の古墳として小字「塚穴(つかあな)の場」が注目されています。「字(あざ)寺の内の北方で太平山(会下山)の南麓にあたり,土地高燥展望よく明治の初頃まで多数の古墳があった」とし,市立山手中学校建設に際して近在の厄除観音堂の下を掘ったところ,「沢山の祝部土器(いわいべどき)などが出土」したと記しています。「祝部土器」も須恵器のことです。

考古学上の発掘記録の始まりとしては,大正8年(1919)に清家植直氏が城山山麓部における竃形土器の発見地を『考古学雑誌』第9巻第8号(日本考古学会)に報じられたことがあげられます。「現在古墳と認められるもの,約十数あり,其の中には,全部石槨(せっかく)を露出したもの,又は羨道を穿(うが)ちたるものもある」と記されています。この竃形土器は,現在京都大学が所蔵していますが,おそらくこれらの古墳から出土したものでしょう。出土地の特定には至っていません。

昭和17年(1942)頃より,主として芦屋の遺跡踏査を続けた地元の吉岡昭氏も昭和19年(1944),17歳の若さにして和綴墨書の『摂津国芦屋郷土石器時代文化研究』を著し,さらに同年書かれた『考古随録』などにも古墳の存在を記しています。とりわけ「城山麓之遺跡地図」は貴重なもので,昭和17年8月29日作成段階では,図上総数61基の古墳が確認でき,大きくは3つのグループに分けることができます。これをみると,古墳の分布は急斜面を避け,比較的緩やかな斜面地形に密集するようです。吉岡氏の踏査活動により採集された「城山麓」出土の須恵器には完形品も伝わっており,城山古墳群の副葬土器を知る上に重要な資料といえます。同じ頃,地元の山本正男氏も城山中腹の古墳など,今では確認できない石室墳の写真を撮影しています。

他に,大正11年(1922)発刊の『神戸市史』別録1の記載や別録附図の「武庫地方遺物遺蹟分布図」にも西芦屋1基,山芦屋3基,鷹尾山12基の計16基の古墳マークを数えることができ,中に明治41年(1908)4月の造成で石棺蓋が出土した西ノ坊(にしのぼう)地区が含まれています。この地図は神戸史談会の福原清次郎氏と吉井太郎氏の踏査に基づくものです。また,昭和15年(1940)刊の紅野芳雄著『考古小録』には城山南麓に5つの円墳印がみえ,高座川左岸の4基,右岸の1基に分けられます。昭和30年(1955)の神戸市民同友会の「旧武庫郡古墳地名表」には,鷹尾山群集墳17,山芦屋群集墳4,西芦屋古墳1などがみえます。

また,篠山鳳鳴高校の所蔵考古資料中にも「城山南麓採集品」があり,その伝来には福原会下山人が関与しています。昭和42年(1967),初めて公にされた芦屋市による「埋蔵文化財包蔵地台帳」では,旭塚を「S−1」の遺跡番号で記し,周辺では城山古墳・からす塚・山手中学校グランド内古墳祉・山手中学校テニスコート内古墳址などが登場します。昭和20〜40年の戦後約20年間は,城山古墳群が一気に消滅の一途をたどった時期と考えられます。

調査成果について

今回の発掘調査は,既往の調査である程度実態のわかっている旭塚古墳以外に,事業地内に遺存する他の埋蔵文化財の存否の確認を目的として実施しています。昨年度,第1次確認調査としてトレンチ調査を実施し,現在は,土器類が確認されたところを中心に古墳本体の有無などを確かめることをねらいとした第2次確認調査を行っています。

なお,当概要は調査途中のものであり,後日正確を期し,補訂する場合があります。

旭塚古墳の確認調査

外形

従来,円墳ないしは方墳と考えられてきましたが,今回の確認調査でコーナ付近を隅切(すみぎり)する形で貼石面(はりいしめん)が検出されたことにより,多角形墳(八角形など)の可能性が考えられるようになりました。終末期の古墳としては,全国的に点在するものですが,なお稀少なものであり,墳形自体と外護(がいご)施設には大きな意義があります。貼石には黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)(六申花崗岩)・布引花崗閃緑岩・泥岩(ぬのびきかこうせんりょくがんでいがん)ホルンフェルス・花崗斑岩(かこうはんがん)などが用いられ,葺石(ふきいし)とは異なり,平らな面を表面にするように意識的に墳丘に貼っています。ただし,奥行きのある石もあり,墳丘を保護する石積みという言い方も可能です。裏込(うらご)めはありません。残存墳丘の規模は東西16m以上で,南北については推定17m以上です。背面の護石(ごせき)は,墳丘内の可能性が強く,築造当時の外形はもう少し大きなものとなります。墳丘のコア部分は水平にラミナがみられる古い谷埋めの自然層を残核的に切り残したもので,一見すると,砂とシルト質粘土が互層状となり,版築(はんちく)様の築成土(ちくせいど)にも見えますが,人工的な盛土ではありません。乾燥すると,かなり固く締まります。

外形は北東域が大きく損なわれていました。建物の基礎小口(こぐち)が深く垂直に切り込まれていました。

内部構造

巨石をたくさん用いた大型の横穴式石室で,天井石すべてと奥壁上段,側壁の一部を失っていますが,平面プランは形骸化の著しい退化傾向をもつ両袖式(りょうそでしき)です。石室の全長は9.8m,玄室の幅は最大2.1m,長さは4.1m,羨道は幅1.6m,長さが5.7mを測り,高さは最高部で2.1mを計測します。今回,三次元計測を行い,立体視できるデータが得られました。

石室壁体は,巨石を縦位置に使用することに強い意図があるもので,玄室側壁に縦方向に使用する大型石材を3石も含みます(右側壁2石,左側壁1石)。ただし,奥壁は巨石上下2段積みと推測され奥壁ぎわの左右側壁は共に正方形に近い基底石の上にもう1段石材をのせる2段積みを行っています。この上に1段平積(ひらづ)みを加えることも推測可能で,この想定では石舞台(いしぶたい)式石室のミニタイプとなります。また,左側壁では目地を通して玄室中央の壁石も2段積みです。同様に,この上に1石の平積みが考えられます。天井石の袈溝を考えると,玄室1石立石部も非常に薄い石材を一,二平積みして,立面横造の調整を図ったと考えられます。

袖部は左右両方共に幅が狭いですが,右側壁部分は立柱(りっちゅう)1石のみが残存し,左側壁は3段積みとなっています。基底は正方形に近く,上2段分は平積みです。高さのバランスを考えると,右玄門石の上に平積みの1石が存在していたことが,容易に想像できますが,石舞台タイプであるならば,この上に前壁(ぜんぺき)を想定し,左玄門石上の石材は後補材(こうほざい)と解されるでしょう。

羨道部も大きな石材を選んで用いられており,高さ1m内外の石を中心に基底を形づくっています。右側壁5石,左側壁5石で構成され,表門部の石は立柱的な用い方を行っています。羨道部も  上段1石は平積みが主用され,2段積みが基本であったと思われます。平面プランは玄室が不整な長方形で,奥壁から1石目と2石目の間でやや胴張りとなります。羨道は開口部が広まり,八の字の形になります。

石材の多くは築造時とは異なり,天井石や上部壁石を完全に欠くため,石室内へと内傾しているものが多く,対向面との石材に横方向の支持棒が必要な状態となっています。使用石材は黒雲母花崗岩が主体をなしますが,花崗斑岩や石英斑岩(せきえいはんがん)なども目につきます。内部構造である横穴式石室を包蔵(ほうぞう)する墓坑(ぽこう)については,ラミナの認められる互層堆積物である旧地形を大きく切り開いており,壁石をすっかり包むような高い位置から掘り込んでいます。この自然層は周辺確認調査区からも検出されており,山麓台地面の侵食小谷を成層状態で厚く覆ったものと考えられます。したがって,墳丘の真正な盛土は天井石を覆う部分以上と墳裾まわりの限られた土量ものです。墳丘背面の最内輸の内護列石はその盛土と関係するものと思われます。なお,奥壁の北側では大量の花崗岩コッパを廃棄処理した穴がみつかりました。径3m以上,深さ0.5m程の皿状の土坑(どこう)で,江戸時代初期の石切場と関わるものです。おそらく近在で石切作業を行った証拠でしょう。旭塚古墳石室に用いられた石材の多くもこの時期に割り採られたようです。

前庭部

羨門の前面部分も調査区を広く設け,遺構・遺物の有無を確認しています。昭和時代の造成や建物工事以外にそれ以前の開発もあり,削平,地ならしや盛土などの土地改変がかなり加わっているようですが,古墳の墳丘裾から12m隔たった地点には,石室床面との比高差157cmの所で古墳時代の地表面が検出され,須恵器・土師器の土器類の散布面と大変珍しい竜山石(たつやまいし)の砕石面が検出されました。竜山石は長持形石棺(ながもちがたせっかん)や家形石棺(いえがたせっかん)など大王や大首長クラスの埋葬棺に使用される古墳時代にあっては大変グレードの高い石材ですが,旭塚古墳では砕石片が当時の地表に広がった状態で検出されたのみならず,羨道部を中心とする石室床面にも遺存していました。石室内における竜山石片の存在と前庭部の割石面は同一石材であり,強い因果関係を考えさせるもので,近畿地方では初めての出土ケースとして注目すべきものです。ただし,石棺材のように製品面を残すものはみられません。

周辺調査区

旭塚古墳は城山古墳群中,盟主的な位置を誇示するものです。そのため,周辺部には数多くの横穴式石室墳が群集墳として存在することが予測されました。確認調査は1次と2次に分け,入念に進めました。第1次では事業地の要所にトレンチを入れ第2次調査では最も土器類が出土する箇所を中心に面的に,さらに深部にも7.7mに達する階段掘りを行って,完全に埋没しているであろう墳丘や石室をもらさぬよう細かく調べました。

しかし,結果として,周辺で須恵器や土師器,耳環(金環(きんかん))などが浅い整地層に含まれていることから,多くの古墳が随所で既に壊されその形跡をとどめないことが判明しました。ただし,一ヶ所だけは円形周溝状の溝を伴う遺構と土器集中地点,土器埋設地点が確認されその性格を調べています。仮称として,城山21号墳の呼称を与えておきます。

円形周溝は平均幅110cm,深さ25cmを測るもので平面検出は難しく,土層断面により遺構であることを確定しました。高い部分は削平を受け,半月状となっていますが,正円としてみれば,径12m程になります。全周を確認することはできていません。明らかに人工的な掘削跡と流入埋積土を検証することができ,墳丘・主体部ともに削平を受けた古墳の周溝か,土器祭祀などの区画跡と考えられます。集中地点の土器には阪神間では類品の乏しい子持器台(こもちきだい)があり,埋設地点では須恵器の大型平瓶 (おおがたひらか(へいへい))と土師器甕(はじきかめ)を直立させていました。子持器台は台脚部や杯部の退化が著しく,また子持の小型杯の型式が終末期を示すものです。古墳の入口部分とも考えられます。これらの土器の特徴は7世紀のもので,旭塚古墳の築造年代とも重なる時期のものです。

まとめ

(1)調査結果をめぐる問題と整理

今回の調査では,この土地に改めて開発事業(宅地造成)が行われるため,事業者から確認調査の依頼により,埋蔵文化財の存否を確認するための発掘調査を実施しました。その結果,予想もしなかった数々の成果があがりました。概要は既に紹介したとおりですので,箇条書きにより諸成果を要約するとともに整理し,旭塚古墳をとりまく歴史的背景についても触れておきたいと思います。

  1. 旭塚古墳は,東西残存幅16m以上,南北17m前後の腰高の墳丘をもち,内部に横穴式石室を構築した古墳時代終末期(7世紀)の特異な要素を数多く持つ古墳です。尾根を背後に負い,ふところ状の地形におさまるため,風水的な立地要件も読みとれます。
  2. 旭塚古墳は墳丘の前面を中心に貼石風の石積みによる外護施設を有するもので,辺角を作って多角形墳になる可能性があります。八角墳は天皇陵に採用される時期がありますが,地方の有力豪族にも使われる場合があり,これまで円墳説・方墳説がみられましたが,墳形は多角形をも視野に入れた検討が不可欠です。また,古墳の規模からみて,内区石積み・内区列石と考えられる墳丘護石も存在するようです。それが2重に巡って存在する可能性も出てきました。盛土の多い部分は流出しやすいためか,入念に墳丘を保護しているようすがわかります。
  3. 内部構造の横穴式石室は,石室全長9.8m,石室幅2.1m(最大),石室残存高2.1mを計測する大型で両袖式になるものです。玄室は長さ4.1m,幅2.1m(最大),羨道は長さ5.7m,幅1.6mで,平面プランはほぼ完存しています。しかし,立面形態は天井石を全部失い,奥壁や側壁も上部壁石を欠くもので,構造上わかりづらい点を残しますが,古墳時代終末期独特の巨石墳です。大和飛鳥の石舞台の設計や石積みのミニ版になる公算が高く,岩屋山式より古い石室と考えられます。また,多くの部位が中国唐代の尺(1尺=29.7皿)で完全に割り切れる完数尺によって設計されていることがわかりました。
  4. 石室床面は,昭和36年の発掘調査でほぼ終了し,副葬品などの全体は把握できませんでしたが,築造時期のヒントになる須恵器片などが出土しました。その反面,床面では大変珍しい要素が確認されています。結論が出たわけではありませんが,この古墳の性格を知る上に重要な要素です。
    その一つは,玄室の奥壁側に築造の当初からの1枚の巨石が敷かれている点で,近畿地方での類例が全くなく,玄室設置の棺台と考えられます。比較的厚いこの大型石材を基底にして,大型木棺や漆塗り棺などグレードの高い棺が置かれたことが想像されます。
    いま一つは,羨道部を中心に近畿地方では前例の少ない播磨産竜山石片の散布面が遺存していたことです。黄色シルト質粘土と共に敷布されているようにもみえますが,散乱しているようにみえる部分もあります。いずれにせよ,花崗岩産出地帯の表六甲では,予測できなかった事実です。
  5. 墳丘前面の前庭部では,バラス敷同様の竜山石を砕石加工した跡がみつかりました。東西4m以上,南北4.5m以上に広がっています。その数や大小形態のバラツキから,石材加工場,コッパ廃棄場,敷石施設,バラス敷きなど多様な見方や解釈が加わってきます。通常,竜山石は畿内では古墳時代中期の長持形石棺や古墳時代後期の家形石棺などに使用される石材で,大王墓(天皇陵)や大豪族の埋葬棺に使われる用材だけに,摂津・芦屋地方での特異な出土状態には驚かされます。おそらく,旭塚も竜山石製の家形石棺を納置していたものと思われます。市内に存在する竜山石製石棺仏との関連も出てきました。
  6. 城山古墳群中にあって,周辺には古墳の形跡がきわめて乏しく,旭塚古墳が一定の兆域(ちょういき)をもって他の群集墳を排他している構成が読みとれる点も特異な要素の一つです。

以上のことから,旭塚古墳の被葬者は大変地位の高い人物で,石棺が納められたことが推測できるようになりました。六甲南麓地域や西摂地域でも有数の氏族が墓主になったと考えられ,築造時期である7世紀では,古代摂津国兎原郡(うはらぐん)を代表する政治的指導者(例えば郡領氏族)の一,二世代前の人物の墓とみていいようです。

城山古墳群と三条古墳群の性格と変遷について

旭塚古墳を含む城山古墳群と高座川をはさんで西方に展開する三条古墳群は,芦屋川右岸部の高位段丘上にあってよくまとまった群集墳を形成しています。高座川は中世鷹尾城の活動期(室町時代)に外堀的機能を付加するため,大きく付け替えられたとみる人もおり,元々は一連の古墳群としてとらえてよいのかもしれません。

これより,西方へは,三条岡山遺跡のように5世紀末に遡る(さかのぼ)中期古墳は存在しますが,後・終末期古墳の遺存については,西900mの地点に隔たる生駒(いこも)古墳に至るまで,山麓線沿いには古墳の空白地帯が続きます。ただし,三条岡山遺跡では,石材・耳環・鉄釘・須恵器などが出土する地点が認められ(第2地点),壊された横穴式石室墳の広がりが推定されています。

一つの支群とも考えることのできる三条古墳群は,築造時期が6世紀前半にさかのぼる寺ノ内(てらのうち)1・2号墳のような古いものがある反面,7世紀以降の築造と想定される三条5号墳(方墳)などがあり,造営時期の長さが注目されます。また,群集墳とは言いながら,同時並存的な築造墳は少なく,この地域では社会的地位の高い首長層が累代的に埋葬されていった墓が多いと思われます。最後に,二つの古墳群を構成する古墳で既に発掘調査されたものを中心に構築序列を追う編年表を作ってみましょう。これに墳丘形態,副葬品目の違いなどを加えることによって,その性格などを考えることができます。

これらの古墳群は,摂津国兎原郡の郡領層(政治的指導者)や芦屋廃寺の創建氏族,葦屋駅家(うまや)の経営集団とも前身勢力として強い関連を持つことが確証でき,古代畿内政権の西端要所をおさえる拠点として重要な歴史的位置を占め,その政治勢力の直轄の墓域として機能したといえるでしょう。

※本説明会資料の写真については,一部 武庫川女子大学考古学研究会,藤川祐作氏,山本徹男氏,梅原章一氏に提供を受けました。感謝申し上げます。