芦屋川水車場跡と城山古墳群第20号墳の発掘調査成果

平成18年(2006年)4月30日(日)
芦屋市教育委員会

1.はじめに

みなさん、こんにちは。本日は、ようこそ芦屋川水車場跡・城山古墳群の発掘調査現場にお越し下さいました。半日ゆっくりと遺跡に触れ、埋蔵文化財を身近に感じていただければ幸いです。

さて、今回の発掘調査は、下記の要領で実施しています。調査はまだ途中ですが、貴重な成果が数多くみられましたので、市民のみなさまに現地を公開し、調査の内容と成果を見学していただくことにいたしました。なお、本発掘調査に先立ち、既存建物解体前である平成17年11月1日〜11月24日に第1次確認調査を実施し、既存建物解体後の平成18年3月1日〜4月5日に第2次確認調査を実施しました。その結果を受け、このたび本発掘調査を実施しているところです。

所在地 兵庫県芦屋市山芦屋町24番地1(地番表示)
調査主体 芦屋市教育委員会
調査目的 共同住宅建設に伴う事前調査
調査担当者 竹村忠洋(芦屋市教育委員会生涯学習課学芸員)
白谷朋世(芦屋市教育委員会生涯学習課嘱託職員・学芸員〕
調査期間 平成18年4月6日〜5月23日(予定)
 

2.今回の調査地と周辺の遺跡

今回の調査地は、城山古墳群と徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群の分布範囲内に位置しています。六甲山地南麓の段丘上に立地しており、標高は約66〜81mを測ります。調査地点の周辺をみると、北方には城山南麓遺跡、西方には山芦屋遺跡が近接して分布しています。

(1)城山古墳群(大字城山・山芦屋町)

古墳時代後期から飛鳥・白鳳文化期(6世紀後半〜7世紀後半)の群集墳です。主な埋葬施設は横穴式石室です。芦屋川の支流である高座川を挟んで、西方には三条古墳群が分布しています。

当古墳群では、これまでに山芦屋古墳・旭塚古墳・第3・4・10・15・17・18・19号墳などが発掘調査されています。それらの特徴としては、巨石墳・終末期古墳・多角形墳などが挙げられます。さらに、武器・馬具の副葬が顕著で、竃形土器をもつ古墳も4例あります。これらの特色から、本古墳群の被葬者は渡来系氏族である可能性が高いと考えられています。

なお、この時期の集落跡は、芦屋川右岸の扇状地を中心に分布する月若・芦屋廃寺・寺田・西山町・三条岡山・三条九ノ坪などの諸遺跡で見つかっています。

(2)徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群(大字城山・山芦屋町)

徳川大坂城東六甲採石場は、江戸幕府によって元和6年〜寛永6年(1620〜1629年)にわたって実施された大坂城再建事業に伴う石垣用石材の採石場跡で、六甲山地東南麓地域(西宮市〜神戸市灘区)に分布しています。また、刻印石の分布をもとにして、6つの刻印群(甲山・北山・越木岩・岩ヶ平・奥山・城山刻印群)に細分されています。その中で芦屋市域に分布するものは、岩ヶ平・奥山・城山の3つの刻印群です。

城山刻印群は芦屋川西岸の城山山塊に分布しており、今回の調査地もその分布範囲に含まれています。これまでの調査で、刻印石や矢穴石、割石がみつかっています。刻印の種類から、日向佐土原津島津右馬頭忠興、豊後臼杵藩稲葉彦六典通・稲葉民部少輔一通、丹波福知山藩稲葉淡路守紀通らの採石丁場跡があることが明らかにされています。

(3)城山南麓遺跡(大字城山・山芦屋町)

城山には弥生時代中期末から後期初頭(紀元前1世紀〜紀元1世紀)の高地性集落である城山遺跡が分布していますが、その山麓部に位置する城山南麓遺跡においても同時期の集落跡が確認されています。

時代が下り、室町時代(16世紀)になると、摂津豊島の土豪、瓦林正頼が鷹尾山(通称、城山)山頂に鷹尾城を築きますが、城山南麓遺跡でも同時期の建物跡や火葬墓などが検出されています。これらの遺構の性格は、山城(鷹尾城)と対になる平城と考えられています。

(4)山芦屋遺跡(山芦屋町)

芦屋川と高座川の合流点の北方、標高80m前後の段丘上に立地しています。これまでの調査では、縄文時代早期〜後期(今から約11000〜3500年前)の土器や石器が多数出土しています。遺構では、早期末(今から約7000年前)の石囲炉や中期未〜後期初頭(今から約4500年前)の竪穴住居跡1棟などが検出されています。

また、弥生時代中期(紀元前2〜1世紀)の焼失住居跡1棟や、配石遺構なども検出されています。

3.六甲山地南麓の水車について

今回の調査で見つかった水車場跡は芦屋川水系に属していますが、ここではこの水車場の歴史的意義を知っていただくために、六甲山地南麓で展開した近世から近代における水車と産業の歴史について簡単に説明したいと思います。

(1)江戸時代−−菜種油の生産(絞油水車)・酒造のための精米(米踏水車)

六甲山地南麓では、元禄年間(1688〜1704年)に住吉川水系の菟原郡野寄村(現在の神戸市東灘区西岡本)に設置された水車6輌が最初の水車とされています。それ以降、当地域では、六甲山地を流れる河川の急流を利用した商業用の巨大水車が近・現代にいたるまで数多く稼動していました。

初期の水車(17世紀後半)がどのような作業に用いられていたのかはよくわかっていませんが、少なくとも18世紀以降は、農村で作られた菜種や線花の油絞りを行ったり、酒造用の精米を行っていました。前者は「絞油水車」「油車」、後者は「米踏水車」「米車」などと呼ばれています。

菜種油は灯油であり、当時の照明具となる生活必需品でした。また、菜種油や灘〜西宮・今津・伊丹の酒は、江戸で大きな需要があり、江戸幕府も重視した商品となっていました。つまり、六甲南麓地域の水車群が生産する菜種油と酒造用米は、江戸時代の社会や経済にとって、とても重要なものであったということになります。

(2)明治時代一製粉(粉挽水車)と灘目素麺

明治時代に入って、石油ランプの輸入や普及により、菜種油が使われなくなったため、絞油水車は必要なくなりました。そこで、水車は小麦を製粉する粉挽水車として、素麺の原材料の生産に利用されるようになりました。この素麺は三輪そうめん技術者伝来の伝承があり、明治時代における当地域の名産品として、「灘目素麺」と呼ばれ親しまれていました。しかし、素麺作りのために播州地方から出稼ぎに来ていた人たちが地元で素麺を製造するようになったため、灘目素麺作りは衰退していきました。これが「播州そうめん」の起源になったといわれる由縁です。

(3)大正・昭和時代−一水車の衰退

一方、酒造りは明治〜大正時代にかけて生産のピークを迎えます。そして、その背後では六甲南麓地域の多数の水車が精米のために稼動していました。しかし、第一次世界大戦(1914〜1918年)後に電動機が普及し、大正11年(1922年)頃には精米にも利用されるようになった結果、米踏水車は必要なくなりました。

昭和13年(1938年)には、阪神大水害によって六甲山地南麓に残った水車場の多くが被災しました。そして、これらの水車は復旧されることなく廃絶しました。

太平洋戦争後に残った水車は、アルミニウ。やコルクの粉など、特殊な製粉を細々と行っていましたが、これらの水車場も昭和42年(1967年)の水害で大きな被害を受け、復旧されることなく廃絶しました。

六甲山南麓で稼動していた最後の1輌も、昭和54年(1979年)に火事で焼失してしまいました。

4.芦屋の水車について

次に芦屋の水車についてみていきましょう。水車に関連する最も古い記録は、宝永4年(1707年)の打出村善四郎による水車設置の願書です。この水車がどのような作業に用いられていたのかは不明ですが、それ以降、水車に関連する記録が数多く見られるようになります。その中には当時の水車の作業内容を知ることができる文献も含まれており、例えば、明和6年(1769年)の『芦屋村差出明細帳』には、芦屋村に絞油水車が6輛、米踏粉挽水車が5輌あったことが記されています。また、天明8年(1788年)の『御巡見様御通行御用之留帳』には、芦屋村に絞油水車10輌、粉挽水車1輌、三条村に米踏水車2輌あったと記載されています。両文献を比較すると、芦屋村では、水車の数が11輛と変化が認められないにもかかわらず、絞油水車が6輌から11輌に増加していることから、18世紀後半の芦屋村の水車では、菜種油がより盛んに生産されていたことがわかります。

明治時代以降の水車場の動向は、当時の地形図に記された水車場を示す記号(●)から推測することができます。これによると、芦屋村と三条村を合せた水車場記号の数は、明治18年(1885年):15ヶ所、大正3年(1914年):10ヶ所、昭和7年(1932年):5ヶ所と推移しており、この数字から、芦屋においても水車場が減少していく様子を読み取ることができます。なお、近代における水車の名称や作業内容については、本資料8ページに掲げた第3表で知ることができます。

これらの水車場も戦前までにはすべて稼動を終えており、現在、地上に残っているものはまったくありません。今では、市内各所の石垣にはめ込まれた水車場に関連する石臼(搗臼・碾臼)などや遺構の一部が残っているらしい壊平地の草むらに、その面影を偲ぶことができます。

そのような中、今回の調査において当時の水車場跡がみつかったことは、郷土の歴史を知る上で、大変意味のあることでしょう。

5.今回の調査成果

(1)今回の調査で見つかった遺構

本日までに確認されている主な遺構は、以下のとおりです。

  1. 飛鳥時代〜白鳳文化期(7世紀半半ば)の横穴式石室1基(城山古墳群第20号墳)
  2. 室町時代(16世紀)と推定される石垣状遺構
  3. 江戸時代前期(1620〜1629年)の徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群に伴う石材
  4. 江戸時代後期以降(18〜19世紀)の建物跡
  5. 幕末〜大正時代(19世紀後半〜20世紀前葉)の水車場跡

次に、各時期の遺構について、見ていきましょう。

1.飛鳥時代〜白鳳文化期(7世紀半ば)に築造された城山古墳群第20号墳

調査区北部で見つかった横穴式石室です。墳丘と石室の上半部は削平されており、石室南部の側壁も破壊されていました。そのため、墳丘の形態や規模はよくわかりませんが、直径6m前後の円墳であると考えられます。

石室は南からの入り口をもつ無袖式の横穴式石室です。石室の大きさは、残存部で、長さ釣300cm、幅約80cmを測り、小規模なものです。石室の側壁は、下から2段目までしか残っていませんでした。

石室の床面からは、奥壁側から鉄製品が数点出土しました。これらは、副葬品である鉄鏃や木棺の板材を繋いでいた鉄釘などと考えらます。石室の南部からは、須恵器の鉢や数本の鉄釘が確認されています。また、須恵器が数点出土しており、それらは形態から7世紀半ば頃に製作されたものと推定されます。この須恵器の年代から、当墳の築造年代は7世紀半ば(飛鳥時代〜白鳳文化期)であると考えられます。

当墳の被葬者について検討すると、飛鳥時代〜白鳳文化期の古墳は小規模になる傾向があるので、墳丘や石室の規模が小さいからといって被葬者の身分がそれほど高くないと判断することはできません。むしろ、薄葬化が進む時期の古墳であるにもかかわらず、鉄鏃など副葬品は比較的豊かです。

2.室町時代(16世紀)と推定される石垣状遺構

調査区の北西部でみつかった径20cm前後の自然石を数段積み重ねた石垣状の遺構で、東西方向に一直線にのびています。江戸時代後期(18〜19世紀)の建物の基礎に壊されており、長さが2.7m、高さが52mしか残存していませんでした。

この遺構の時期は、石の積み方から城山山頂に鷹尾城があった室町時代(16世紀)の遺構である可能性が高いと言えますが、性格など詳細はよくわかっていません。

3.江戸時代前期(1620〜1629年)の徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群に伴う石材

すでに埋め戻してしまっているために見ることができませんが、第2次確認調査中に調査地中央からやや南に偏った位置から徳川大坂城東六甲採石場城山刻印群に関連する石材が2石みつかりました。両石材ともに、石垣用石材を切り出す際に矢穴によって割り落とされた端石で、それぞれを1号石材、2号石材と呼称しています。各石材の規模は、1号石材が長さ約170cm、幅約80cm、厚さ約52cm、2号石材が長さ約83cm、幅約65cn、厚さ約42cnを測ります。

4.江戸時代後期(18〜19世紀)の建物跡

調査区北西部でみつかった建物の基礎で、割石が石垣状に組まれています。建物の北西部分しか残っていないため、現状では「L」字形のように見えます。

この建物があった正確な時期はわかりませんが、江戸時代後期(18〜19世紀)頃のものと推定しています。水車場に伴う施設である可能性も十分考えられます。

5.幕末〜近代(19〜20世紀)の水車場跡

調査地北部からは、水車場に関連するいくつかの施設がみつかりました。この水車場の稼動時期を検討すると、明治18年(1885年)・大正3年(1914年)の地形図に水車場の地図記号が確認できますが、大正15年(1926年)の地形図には記されていないことから、大正期に廃絶したことがわかります。建設時期は、滝壷(水車回転溝)を構成する石材の積み方や、出土遺物の上限年代などから検討すると、幕末(19世紀半ば)まで遡ると考えられます。

発掘調査でみつかった水車場に伴う遺構としては、水車場の建物に伴う柱穴、水車(水輪)が回転していた部分(滝壷)、水車に掛けられた水を排水する暗渠、水車場内の半地下式の作業場、石臼を据えた可能性がある穴などが見つかっています。

水車場に伴う柱穴列

調査区の南部でみつかりました。直径約50cm、深さ約20cm程度の柱穴6穴が1間(6尺≒1.818m)間隔で東西方向に並んでいました。この柱穴列は、滝壷の中心線に直交することから、水車場に伴うものと判断しました。建物の柱に伴うものなのか、それ以外の用途があるのかは不明です。

なお、この水車場は、明治18年の地形図に記された建物の形状などから、東西方向に長い建物であったと考えられます。建物の規模を周辺の地形や遺構の分布から推定すると、滝壷(水車)を中心に6間(約10.91m)振り分けの建物で、全長では12間(約21.82m)ほどあったと推定されます。−方、滝壷や半地下式の作業場の北方にみられる段差地形や現在に残る水車場の間取りなどから検討すると、滝壷北壁を東西方向に延ばしたラインが建物の北辺になると考えられます。そうすると、南北規模については、建物の範囲が少なくとも調査区南部で確認された東西方向の柱列までは確実に広がっているので、7間(約12.73m)以上あったということができます。

なお、水車(水輪)は建物内に設置されていることから、建物の外からは見えない構造となっていました。

滝壷(水車回転溝)

調査区中央で見つかった、水車(水輪)が回転していた石組の遺構です。平面形は長方形で、底面の規模は長さ605cm、幅85cm、深さ27cmを測ります。側壁は、割石や古い石臼(搗臼)を8〜9段積み上げて築かれています。積み方は布積みで、長辺側の壁体は直立させて積まれていますが、短辺側は外側にやや傾斜するように積み上げられています。また、方柱状の搗臼が構築材として転用されています。石材の形態はブロック状で、1石の大きさは長さ50〜7cm、厚さ30〜40cm程度です。一方、転用されている石臼(搗臼)は方柱状に整形されているもので、上面を半球状に彫りくぼめて臼をつくっています。石臼の大きさは、上面が一辺約80cm程度の正方形で、高さは60〜8cm程度です。臼部分の直径は約21cm、深さは約18cmで、比較的小型のものです。

滝壷の底面には、平たい石が敷き詰められています。また、排水のため、一段の段差もって南側に傾斜しています。

なお、水車(水輪)本体は、現地にまったく残っていませんでした。しかし、滝壷の規模や排水口である暗渠の入り口部分の位置から、直径2.5間もしくは3間(約4.5mもしくは5.4m)の水車が設置されていたと考えられます。

ところで、滝壷の側壁には水の影響で黒くなっている部分がありますが、反対に黒くなっていない部分を見てみると白っぽい部分が半円形に浮かび上がっています。この部分は、もしかすると水車の位置や規模を示す痕跡なのかもしれません。ちなみに、この半円形の部分の直径は約4.5mとなっています。

また、水車(水輪)に水を掛ける導水用の木陰が水車に向かって北方からのびてきていたはずですが、痕跡はまったく確認されていません。

排水用の暗渠

滝壷南部の東壁には、水車を動かすために導水された水を排水するために排水口が設けられています。排水路は暗渠となって東南東へのびており、途中で、近代の溝と重複します。敷地北東方向に認められる水路に続いていたものと考えられます。

側壁は割石によって築かれており、平らな割り石で蓋をされています。水路断面の規模は、幅約80cm、高さ約116cmを測ります。

半地下式の作業場

滝壷の西側に設けられた半地下構造の作業場です。その規模は、東西方向が2間(約3.6m)、南北方向が3間(5.4m)となっています。床面までの深さは、約105cmです。

壁には割石が3段、外側にやや傾斜して積まれています。さらに、石積みの表面には黄色粘土が貼られており、土壁となっていたようです。また、床にも同じ黄色粘土が貼られています。

この作業場の性格はわかりませんが、大正期から昭和期の米踏水車には、アンドンという篩い(選別機)を半地下に据えて回転させ、米と糠とに篩い分けていたということであり、今回みつかった半地下式作業場にもこのアンドンが設置されていた可能性が考えられます。

石臼を据えた可能性がある穴

調査区南西部で、現在4偶の穴がみつかっています。内部には礫が詰められており、その理由としては、何か加重のかかるものが据えられていたと推測されます。これらの穴の性格については、建物の柱や水車場内の施設に伴う柱穴の可能性も考えられますが、もしかすると石臼を据えた穴かもしれません。

これらの穴は、滝壷の中心線と直交するように東西方向に一列に並んでいます。石白を設置している穴なら、歯車(万力)などを複雑に組み合わせて、水車の回転運動が生み出すエネルギーを伝えてきていたのでしょう。

(2)今回の調査で出土した遺物

今回の調査では、これまでに遺物収納コンテナ(約27リットル)のものが確認されています。

1 弥生時代の遺物

弥生土器片が1点確認されています。この土器は、胎土に角閃石を多く含んでいる生駒山西麓産の土器で、河内地方から運ばれてきたものです。破片のため詳しい時期はわかりませんが、弥生時代後期前半(紀元1世紀頃)のものと考えられます。

2 古墳時代〜飛鳥・白鳳文化期の遺物

城山古墳群第20号墳に伴って、須恵器と鉄製品が出土しています。須恵器には、蓋杯や壷があります。杯蓋は、形態から飛鳥時代〜白鳳文化期(7世紀半ば)に製作されたものであることがわかります。鉄製品は錆びていて詳細はわかりませんが、木棺の板材を繋いでいた鉄釘や副葬品された鉄鏃などが含まれていると考えられます。

また、水車場の近・現代遺物に混じって、須恵器の大きな破片が数多く認められます。これらの須恵器の中には古墳時代後期(6世紀後葉〜7世紀前葉)のものが含まれており、この年代は第20号墳より確実に古くなります。このことから、江戸時代から近代にかけて、水車場が建造される際に、第20号墳とは別の古墳が破壊されていると考えることができます。

3 中世の遺物

土鍋の口縁部と考えられる瓦質土器の破片が1点出土しています。鷹尾城の時代(16世紀)のものと考えられます。

4 近世の遺物

陶磁器類が数多く出土しています。年代は江戸時代後期〜幕末(18〜19世紀)のものです。水車場が作られた年代を検討する上で、有力な手がかりを与えてくれる資料です。

5 近代の遺物

明治時代以降の陶磁器類や瓦片、鉄製品、銅製品、土製品、石臼類などが多数出土しています。これらには水車場が稼動していた時期と廃絶した時期以降のものが含まれています。

これらの中で水車場に関連する遺物として、石臼をはじめとする石造品、土管、方柱状土製品、棒状土製品などがあります。

石造品(石臼など)
ここでは、石造品を一括して近代の遺物の中で説明しますが、江戸時代まで遡るものも含まれていると考えられます。石造品には、調査前の現状において庭石として利用されていたものと、発掘調査によって出土したものがあります。前者で水車場に関連するものは7石認められ、その内訳は搗臼2個、碾臼4個、柱状石造品1個となっています。後者では、調査区北西部の近代の撹乱から、搗臼の破片が3個体分、碾臼の破片が1個体分出土しました。さらに、先述したとおり、滝壷を構築する石材には、方柱状の搗臼が少なくとも5個体転用されています。
土管
半地下式の作業場からは、近・現代のものと形態が異なる土管の破片が出土しており、これも水車場に関連する遺物と考えられます。
方柱状土製品
今回、数多く出土している方柱状土製品は、用途不明の特殊な遺物で、水車に関連するものと考えられます。完存しているものがなく、すべて欠損しているため、全体の形態はわかりません。やや反っていることが特徴です。断面形態は方形で、先端にいくにつれて尖り気味に細くなっています。どのように使われたものかは今のところ不明です。
棒状土製品
棒状土製品は砂粒を多く含む粘土で作られたもので、これも完存しているものはありません。いずれも熱を受けていることが特徴です。これと上記の方柱状土製品との形態は少し似ていますが、両者が同じ性格のものなのかどうかは不明です。
明治時代の銅貨
半銭銅貨(明治□年)、1銭銅貨(明治□年)、2銭銅貨(明治13年)が出土しています。
水車場廃絶期を示す赤煉瓦
調査区北東部で検出された水車場廃絶後の建造物に使われていた赤煉瓦は、その規格が大正14年(1925年)に統一された日本標準規格(JES)の普通煉瓦(21mm×100mm×60mm)とおおよそ合致します。また、これらの煉瓦は手作業で製作されたことを示す「手抜き成形」でつくられており、機械で製造されたものではありません。これらのことから、この建造物が戦前のもので、かつ大正14年以降に作られたものであると判断することができ、地形図で読み取った水車場の廃絶時期を検証することができます。なお、これらの赤煉瓦の「平」の面に認められる「+」の刻印から、岸和田煉瓦株式会社(明治20年創業)の製品であることがわかります。

5.まとめ

今回の調査では、弥生時代後期前半から近代にかけての遺構・遺物がみつかりました。これらの埋蔵文化財は、この地域が豊かな歴史的環境に恵まれていることを物語っています。

さらに、市内ではじめて水車場跡が発掘調査され、予想をはるかに上回る成果を得ることができました。今回、調査された水車場跡の記録は、今後、近世から近代の六甲山地南麓における動力資渡の開発と産業の発達史を考える上で非常に重要な資料になっていくと思われます。

ところで、芦屋の水車場が大正から昭和時代まで営まれていたことから、歴史的には最近のもののように感じられておられる方も多いのではないでしょうか。しかし、今回、水車場跡を目の当たりするまで、市内で水車による油絞りや精米・製粉が盛んであったことを知らなかった方も多いと思います。ましてや、当時の水車場を見たことがある方はほとんどおられないでしょう。このように、数十年前まで残っていた水車ですが、私たちの記憶からは急速に消え去ろうとしています。

そのような中で、今回、発掘調査された水車場跡は、近世から近代にわたって稼動した六甲南麓の巨大水車や、それが担った地域の産業を知るよい機会になったことと思います。 最後に、御存知の方もおられると思いますが、本資料の9枚目には芦屋の水車にまつわる伝承である「金兵衛車・やけ車」を掲げておきました。よろしければ、御一読下さい。

本日は、遠い所、発掘調査現場をご見学いただき、ありがとうございました。