徳川大坂城東六甲採石場

徳川大坂城東六甲採石場 現地説明会資料

2004年7月4日(日)
芦屋市教育委員会

1 はじめに

芦屋市教育委員会は、市内研究団体や民間研究者と長い間連携しつつ、徳川大坂城の石垣用材採石場(「東六甲採石場」)の調査や保存と取り組んでおり、現在はその保護に向けて他の埋蔵文化財とほぼ同等に行政的な取扱いを行っています。以下では、石切丁場を中心とするこれまでの調査状況についてふれておこうと思います。

2 大坂城総合学術調査の成果と意義

大坂城の調査と研究において、西外堀の水枯れを契機として実施された昭和34年(1959)の総合調査は、特筆に値する成果を収めています。芦屋市域での研究史の概観先立ち、まずこの調査の経繚・経過と諸成果についてふれ、とくに刻印石研究と大坂城築城主体の歴史的推移に関して重要とみられる点を整理しておきます。

 この調査は、大阪市・文化財保護委員会・読売新聞社三者の共同事業として「大阪城総合学術調査団」を組織して進められたものです。歴史学関係者、建築史関係者、地質学関係者の混成で、調査団長村田治郎氏を筆頭に末永雅雄・坂本太郎・桑田忠親・山根徳太郎・津野清・村山朔郎・棚橋諒・村川行弘の諸氏から成る錚々たる顔ぶれでした。

豊臣秀吉の金明水井戸調査、西外堀の堀底調査に加え、ボーリング調査ならびにサウンディング調査の地盤調査が行われ、本丸天守台南で地表下9.35mの深部に石垣遺構が確認され、発掘の緒果、このような深さに野面積みの石垣が検出されたのです。豊臣秀吉創建の大坂城は地中深くに埋もれていることが実証された衝撃的な調査結果であり、その発掘報道には多くの人々がわが目を疑いました。これを裏づけるかのように、石垣刻印調査では、現存石垣表面に残る刻印が集中的に調査されましたが、関ヶ原の合戦で滅亡した多くの大名の刻印は全く存在せず、元和・寛永年間の徳川築城大坂城の関係大名の刻印に偏在する重要な事実が確かめられました。

その後、大坂城天守閣ではボーリング手法によって地下の石垣遺構の存在状況を究明し、昭和48年(1973)〜56年(1981)までの前後9年に及ぶ調査を実施しました。結果は、現本丸地下に豊臣秀吉の築いた大坂城本丸石垣の残存する事実が確かめられ、昭和59年(1984)の本丸詰の丸石垣の発見、昭和63年(1988)の天守台石垣検出へと成果は続きます。豊臣大坂城の諸研究が発掘調査成果を踏まえて活発化するのに比べて、徳川再建大坂城の研究は専ら工事関係史料として有用な渋谷文書と京極文書がクローズアップされるところとなりました。

次に、芦屋地方での調査・研究の始まりから現在に至るまでを概観します。

3 刻印石の発見と民間研究団体による分布調査

昭和43年(1968)11月10日、芦の芽グループ会員小倉幸一氏(当時、兵庫県立芦屋高等学校生徒)による六甲山中、野外活動センター内での刻印石の発見を受け、村川行弘氏(芦屋市史編集委員・芦屋市文化財保護審議会委員)や藤川祐作氏を中心とする芦の芽グループが精力的に分布調査を実施し始めました。調査は、翌昭和44年2月以降に本格化し、芦屋市の城山をはじめ、西宮市の目神山や北山公園でも刻印石の発見が相つぎ、広範な地域での採石場存在の認識へとつながっていきました。

刻印石の発見地域が著しく拡大した結果、昭和40年代には刻印石の分布状況を有意にとらえた六つの「刻印群」が設定されました。奥山刻印群を筆頭として、城山刻印群・岩ヶ平刻印群・越木岩刻印群・北山刻印群・甲山刻印群などがそれです。このうち両発掘調査地が含まれる岩ケ平刻印群については、地元研究団体芦の芽グループによる詳細な分析と研究が加えられて『兵庫県埋蔵文化財調査集報』などに掲載され、遺跡周知の領域をその時点で県下全体に広げることになりました。

徳川大坂城関連の採石場の分布調査は、この間も芦の芽グループを中心に地道に続けられ、奥山刻印群では細別地区の増加、一部は市街地へとそのつながりがのぴていきました。それを代表するのが「岩ヶ平刻印群」です。その後、越木岩・北山・甲山の3刻印群についても西宮市教育委員会の管下において分布調査や保護の手が差しのぺられるようになりました。

4 遺跡分布地図への石材所在地登載と行政的な保護活動の開始

昭和54年(1979)、芦屋市教育委員会はこれまでの民間調査の蓄積を高く評価し、採石場(石切丁場)について埋蔵文化財の一環としての認識を強めるとともに、国庫補助事業として計画中の遺跡群細分布調査にもこれらを調査対象として組み入れることにしました。昭和54年度にはその(第1分冊)として発行計画があった埋蔵文化財包蔵地分布地図にその現況の掲載が予定され、調査対象地区として他の埋蔵文化財と並行して城山地区と奥山地区の詳細分布調査が実施されました。その結果は、埋蔵文化財包蔵地台帳へも登載され、その後、遺跡分布地図として公刊をみるようになりました。ドットを示すという点では、地下に埋もれている一般的な埋蔵文化財とほぼ同等の埋蔵文化財としての認識が初めて得られたわけであり、この時点で、ようやく刻印石や矢穴石、割石など関係する石材が概ね遺跡保護の扱いを受けるようになった次第です。ただし、この時期における事前調査は、専ら事業地の分布調査が中心であり、発掘を伴った確認調査による包蔵状況の把握が行われるには至っていません。その間、多くの刻印石が土木工事によって失われていったものと思われます。

しかし、埋蔵文化財包蔵地分布地図に刻印石・矢穴石・割石などが分布する近世採石場の範囲が登載されたことによって、開発協議に際しても地表面に存在する刻印石などは位置の確認と事業地における取り扱いなど事前や事後の保存協議が行われるようになり、文化財保護上、格段の前進がみられました。近世城郭の採石場の保存経過として、おそらく全国で初めての方針転換と試みであったと思われます。

5 分布地図の刷新と市街地における刻印石追認

埋蔵文化財包蔵地分布地図は、その性格上、更新を原則とするものです。10年後に発刊された昭和63年度改定の分布地図では、市内全域で関連石材が改めて精査され、所在地点と刻印群としての推定範囲がマークされました。刻印石一石一石の所在が山中にあろうと市域全体で概ね把握されたわけです。

これらの調査は、市教育委員会による行政的な分布調査とは別個に、芦の芽グループからの基本データの提供や古川久雄氏による全面的な調査協力を得て進められ、5年後にさらに刷新しています。ただし、六麓荘などでは民有地(主として庭など)にその大半が遺存する採石関連石材を悉皆調査することは至難であり、所在の確定に未知数を残すことは否めません。本来遺存する石材の実数は、今日でも不明と言わざるを得ません。ちなみに、A現場では関係石材が既に20倍になっています。

この段階では、市街地の一部民家や公共施設の敷地内にある刻印石をも地図上にドットが落とされ、昭和60年代以降の開発行為は、ほぼ建築確認申請をも射程に入れてのきめ細かな審査・指導がなされ、さらに一般の埋蔵文化財と同様、全庁的な取り扱いに関する庁内合議体制の道も開かれました。遺跡範囲については、個別の確認地点を尊重しつつも、踏査実績を母体として推定範囲を設けていく方針をとり、その結果、未踏査地域でも多くの開発指導と事前調査ができるようになりました。そして、これ以降には不時発見も続出する契機をなしました。

 昭和63年から平成4年頃にかけては、六麓荘町内における住宅新築や建て替えに伴う事前確認調査で、新たに刻印石の発見される例が増加しました。

6 発掘調査に伴う採石遺構確認の時期

昭和50〜60年代、市内山麓部において城山・三条古墳群、八十塚古墳群など古墳時代後期の群集墳の事前調査が進む過程において、調査区内より採石に関連した遺構が見出されるようになりました。自然石から直方体の調整石を割り取ったときに出る端石や採掘坑・作業ピットが偶発的に検出された、八十塚古墳群岩ヶ平支群第10号墳の例は、表面調査ではなく、具体的な遺構を発掘調査の過程の中で初めて確認したものとして特筆すべきものです。以後、採場にあっても土中の石材や採掘坑を予想せぎるを得ない状況となりました。

昭和54年度からは、国庫補助事業による市内遺跡の調査が始まりましたが、14年後の平成5年度、六麓荘町94番地における古墳推定地の住宅開発に伴う事前調査において、確認トレンチの中で古墳推定地点(横穴式石室)の石材の性格精査中に、採石土坑と矢穴石の存在を初めて確認しました。土中深くにも採石遺構が存在する事実を発掘調査現場において目の当たりにした次第です。この段階では、古墳の調査に付随してようやく採石場の調査も国・県・市の補助金事業の対象としてベースに乗せることが可能となった点を強調しておきます。

7 採石場の事前発掘調査の開始と呉川遺跡の出現

平成5年9〜10月、芦屋市教育委員会は芦屋市墓園拡張工事に伴う事前調査を実施しました。芦の芽グループに委託した分布調査を受けての発掘調査ですが、大規模調査についてはなお開発部局の理解が得られず、調査範囲は限定的なものとならざるを得ませんでした。しかし、この段階で初めて採石遺構や刻印石・矢穴石のみを対象とする記録保存と、石材の移築保存を前提とした発掘調査を行うことが可能となり、採石場全体の様相を少しでも加味した歴史的価値をひき出す報告書を作ることができました。この中で毛利氏所用刻印とその用石分布の範囲が再踏査され、すべての拓本資料が精力的に作られるとともに 詳細に研究されています。

一方では、昭和63年(1988)、海浜部において石材の積み出し場と推測される呉川遺跡が発見され、山間部や山麓部の採石場と呼応する新たな遺跡の形態と意義が注目されるようになりました。芦屋市の4号幹線改修工事に伴い呉川町63番地から一括出土した9個の石材で、内6個に合計9刻印が判明し、現在は芦屋市立美術博物館前庭にて現代彫刻の一環、モニュメントとして展示保存されています。これらは、各大名の所用刻印の分析から、岩ヶ平刻印群と奥山刻印群の一部が関与していること、この両刻印群から搬出し、一定のルートに従って降ろし、呉川遺跡がその中継地となって大坂城に海路で運搬されたことなどが明らかにされています。

その後、平成4年になって都市計画道路中央道敷設工事に伴って呉川遺跡から再び刻印石の一群が一括出土しました。その存在意義はさらに高まるとともに、運路工事の事前調査として初めて呉川遺跡の様相の一端が明らかにされました。採石場と有機的な関係を有する石材積出場の内容が判明し始めたことは、全国的にみても類例の少ない遺跡の存在形態として、今後重視すべきものです。また、大坂城と芦屋、二者を結ぶ大阪湾の意義がにわかにクローズアップされました。

8 開発に伴う発掘調査への理解と進展

平成8年度からは、国庫補助事業として採石場の事前調査が実施されるようになりました。芦屋市における特色ある近世の生産遺跡として、これら採石場の存在の歴史的意義が認められるようになったわけであり、記録保存が多いとはいえ、文化財としての関係石材保存の水準はすこぶる高まりました。個人住宅の建設を契機とする調査が圧倒的に多いですが、それまで予想さえしなかった人名刻印「伊木三十郎」のたて続けの検出、採石領域の想定に一定の秩序を与える刻印分布の検証が、着実に実を結びつつあります。

また、平成11年11月に行われた、芦屋大学サブグラウンド建設に伴う発掘調査(第10次調査)では、新たに6個もの刻印石が発見されただけではなく、明瞭な石材採掘坑を二ヵ所検出しました。これは、大半が地中に埋まった巨石を掘り出し複数の調整石を割り採っていく工程が、きわめて生々しく残る遺構であり、花崗岩の採石場を発掘調査すればこのような採石遺構が検出されるという、典型的な事例を示すこととなりました。

調査結果は、しばしば『広報あしや』に紹介され、広く市民に理解される素地も育まれつつあります。芦屋と大坂城との関係の深さも市民層に少しずつ知られてきたように思われます。また、全国的には立ち後れていた近世城郭の石切丁場の調査や研究が初めて討議されるシンポジウムも開催されました(山形県・東北芸術工科大学)。ごく最近では、市指定文化財としての調査や毛利家丁場の刻印石の指定が行われ、その文化財としての価値が認められつつあります。課緩も多いですが、目的をはっきりと持った考古学的手法による発掘調査を通じて、徳川大坂城石垣採石場の保存と活用がクローズアップされているのが現状です。