- 現地説明会日時
- 令和6年2月10日(土)・11日(日)
- 調査機関
- 大津市市民部文化財保護課

坂本城跡とは
元亀二年(1571年)、比叡山焼き討ちを行った織田信長は、滋賀郡の支配の拠点として、明智光秀に坂本城の築城を命じたとされる。坂本城は、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによると「信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にない」と評される。本能寺の変の後、一度焼失し再建された坂本城は、天正十四年(1586年)頃、大津城築城に伴い移築され、わずか15年程度で廃城となったといわれるため、絵図等の詳細な記録がほとんど残されていない。
昭和54年、大津市教育委員会による発掘調査にて、16世紀後半の礎石建物や井戸、多量の瓦が見つかり、坂本城の本丸の一部と考えられる遺構が見つかった。その後、『周知の埋蔵文化財包蔵地』である坂本城跡において幾度か発掘調査を実施したものの、城本体に関する遺構は見つかっていなかった。
今回の調査は、宅地造成工事に伴う調査である。調査面積は約900㎡、令和5年10月から調査を開始した。検出された遺構は、石垣、堀、掘立柱建物、石組井戸、方形石組、溝であり、出土遺物は土師器を中心に、外国産陶磁器、国産陶器、瓦、木製品、漆器と多岐にわたる。

調査の成果
今回調査の大きな成果は、16世紀後半に埋没した石垣を持つ堀が全長約30mにわたって検出されたことである。石垣の石材には、基本的に花崗岩が使用されており、比叡山地周辺で産出される石材と考えられる。石垣には大小さまざまな大きさの石が使われており、そのなかには石造物の転用も見受けられる。石材の加工はほとんど施しておらず、自然の形のまま利用している。そのため、石垣の表面には隙間が生じ、その隙間に小石を詰めている。積み方には乱積みや布積み、谷積み状のものといったいくつかの種類がみられる。見つかった石垣の高さは1m前後であるが、堀の中に石材が転落していることから、本来もう1~2段分の石が積んであった可能性がある。石垣の根石(最下段の石)の下には、地盤沈下を防ぐ胴木は見当たらない。
堀の底面は石垣の根石部分からやや西側に傾斜している。堀の対岸は今回の調査区内(1区2区)では確認されていないことから、その間に存在するものと考えられる。推測すると、堀の幅は12m程度になるものと思われる。
堀の埋土は泥土中心であるため、帯水していた可能性がある。しかし、堀底の標高は84.6m前後であり、琵琶湖の基準水位(東京湾平均中等潮位)84.371mより30㎝ほど高い。堀の給水源がどこなのかは今後の課題といえよう。
今回の調査では、石垣と堀の他に、礎石建物や石組井戸らが見つかった。出土遺物や方位から、これらの遺構も石垣や堀とほぼ同時期のものと考えられる。すなわち、石垣を持つ堀の内側(東側)に、居住空間が存在していたことになる。


まとめ
今回確認された石垣を持つ堀や礎石建物は、出土遺物から16世紀後半と推測される。遺物の中には瓦もある。織豊期城郭の特徴には、①石垣②礎石建物③瓦の出土が挙げられており、今回の調査成果はどの特徴も満たしている。すなわち、今回見つかった遺構は、坂本城に関する遺構の可能性が極めて高いといえる。しかし、瓦の出土量が本丸推定地調査と比べると少なく、今回の場所は瓦葺き建物の少ないであろう三の丸(家臣団屋敷地)の一部と推測される。
調査地の西側に位置する平成30年度、令和元年度の調査では、16世紀前半の町屋跡が見つかり、16世紀後半の坂本城に関する遺構は見つからなかった。そのため、坂本城の縄張りは、本来推定されてきた範囲より小さいことが示唆されていた。今回の調査成果は、以前の調査成果と矛盾せず、新たに坂本城の外郭を想定できる貴重なものである。今回の石垣を有する堀から湖岸までの距離は約300mであり、今まで想定されていた坂本城の南端外郭より約100m小さくなる。

発掘現場の写真
OLYMPUS E-M1 Mark III + M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZで撮影