平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査) 現地説明会

開催日
2017年(平成29年)12月23日(土)
調査機関
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部

平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査)現地説明会 資料

2017年12月23日

独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部

調査地 特別史跡平城宮跡東院地区
調査期間 2017年10月2日~継続中
調査面積 969m²(南北33m×東西29m+南北12m×東西1m)

概要

  • 奈良時代前半の大型の東西棟建物を検出しました。床張りの格式の高い建物で、周辺の建物と一体の空間を構成していたとみられます。
  • 奈良時代後半の大規模な井戸と関連遺構を検出しました。これらは東院地区での食膳の準備に関わる空間を構成するとみられます。

1.平城宮東院地区の調査

平城宮は約1km四方の東側に東西約250m、南北約750mの張り出し部をもち、その南半の南北約350mの範囲を 東院とういん 地区とよんでいます(図1)。『続日本紀しょくにほんぎ』などの文献により、東院地区には皇太子の居所である東宮とうぐう や天皇の宮殿がおかれたことが知られています。また、神護じんご景雲けいうん元年(767)に完成した「東院玉殿ぎょくでん」や、宝亀ほうき4年(773)に完成した光仁天皇の「楊梅宮ようばいきゅう」は、この地にあったと考えられています。

東院地区では、これまで南半や西辺を中心に発掘調査を進めており、前者では庭園遺構(東院庭園)の存在が、後者では大規模な掘立柱建物群が頻繁に建て替えられていた様子がわかってきています。2004年度以降、東院地区西辺の発掘調査を継続して実施しています。

今回の調査では、東院地区の中枢建物群が位置していたと推定される中央部から西北辺にかけての遺構の様相をあきらかにし、東院地区全体の空間利用の変遷を解明することを目的として、第584次調査区(2016~2017年度)の北に調査区を設定しました(図2)。調査は2017年10月2日に開始し、現在も継続中です。

図1
図2

2.調査の成果

(1)検出した遺構(図3)

今回の調査では、奈良時代の建物・塀(いずれも掘立柱の構造)、溝、井戸を検出しました。これらの遺構は数時期に区分できますが、以下では奈良時代の前半と後半の遺構、続いて現時点では時期不明の遺構に分けて説明します。

奈良時代前半の遺構(A 期)

建物1

調査区南部で検出した東西9間以上(約26.5m)×南北3間(約9m)の南廂付き東西棟建物。調査区の東方に続きます。 身舎もやの柱穴に床を支える添束そえづかの痕跡があり、床張りの建物であったと考えられます。検出した範囲での床面積は約260m²です。

東西塀1

調査区中央部で検出した東西塀。3間分を検出しました。

東西塀2

調査区西北部で検出した東西塀。3間分を検出しました。

奈良時代後半の遺構(B~D 期)

井戸

調査区東北部で検出した大型の井戸。東西約9.5m×南北約9.0mの範囲を方形に深さ約0.3m掘り込み、その中心に東西約4.0m×南北約4.0mの平面方形の井戸枠掘方を設けています。井戸枠の周囲には拳大の小礫が多く分布する部分があります。四周に幅約0.5mの石組溝を巡らせ、井戸西辺には後述する東西溝1が接続します。また井戸が廃絶した後には、井戸枠や石組溝の石を抜き取り、全体に整地をおこなっています。

東西溝1

調査区北部で検出した東西溝。井戸西辺中央付近から西へ直線的に延びます。幅約1.2m、長さ約8.0m、深さ0.2~0.5mで井戸から西へ約4.6mの範囲に側石と底石で護岸しています。調査区中央部で東西溝2とL 字溝に分岐します。

東西溝2

幅0.8~1.0m、深さ0.5~0.6mの東西素掘溝。東西溝1の西に続き、L 字溝との分岐点からは幅を狭め調査区の西方へと続きます。多量の土器とともに一時に埋められています。

L字溝

東西溝1から北へと分岐する幅約1.2m、深さ0.6~0.8mの素掘溝。北に約5.0mで西へ折れ、直線的に延び、調査区の西方へと続きます。東西溝2と同様に一時に埋められており屈曲部付近で多量の瓦・土器が出土しました。

建物2

調査区西北部で検出した東西6間以上×南北3間の南廂付き東西棟建物。調査区の西方へと続きます。東西溝2およびL字溝の 覆屋おおいや となる可能性があります。

東西溝3

調査区中央部で検出した東西素掘溝。後世の削平が著しく幅約1.0m、深さ0.1~0.2m、長さ約27.0m分を確認し、調査区の西方へと続きます。

南北塀1

調査区東部で検出した南北塀。井戸の北では1間分、南では7間分を確認しました。南端は南隣の調査区(第584次調査)で検出した東西塀と接続します。調査区東北部では井戸により壊されます。

南北塀2

調査区東北部で検出した南北塀。6間分を検出し、調査区の北方へと続きます。井戸の西辺を壊しています。

東西塀3

調査区中央部で検出した東西塀。6間分を検出しました。南北塀2の南端と接続し、調査区の西方へと続きます。

時期不明の遺構

建物3

調査区東北部で検出した東西2間×南北2間以上の建物。調査区外北方に続き、南北棟建物になると考えられます。

小穴列

調査区西北部で検出した東西4基の小穴列。

石組溝

調査区東南部で検出した石組溝。第584次調査区でも確認していました。

(2)出土遺物

主な出土遺物として、土器類・瓦 せん 類があります。土器類は、東西溝2・L字溝を中心に奈良時代後半頃の土師器・須恵器が多く出土しました。また特筆すべき遺物として東西溝2から「宮」、L字溝から「美濃国」の刻印がある須恵器がそれぞれ出土しています。瓦磚類は、奈良時代前半を中心とした軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦や磚が出土しています。

(3)井戸と関連施設について

井戸は周囲に石組溝が付属する大規模なもので、東西溝1・2やL 字溝と建物2などが一体となり計画的に設置されています。

平城宮内では、これまでの調査で東院地区のほか 内裏だいり 地区や造酒司ぞうしゅし 地区などで似たような構造の大規模な井戸が見つかっています(図4)。今回検出した井戸は付属施設を含めると、内裏地区の井戸に匹敵する宮内最大級の規模であることがわかります。

また、東西溝2やL 字溝と覆屋(建物2)の存在からは、井戸の水を計画的に配水し、これらの溝の周辺で何らかの活動をおこなっていたと考えられます。

東西溝2やL字溝からは、杯や皿などの食器類に加えて土師器 かめ ・カマド、須恵器 ばん ・甕などの調理具や貯蔵具が多量に出土しており、周辺で調理や食器の保管をおこなった空間が存在していたと考えられます。

以上から、井戸と関連する遺構は東院中枢部における食膳を準備する くりや などに関連する遺構である可能性があります。

図3
図4

3.まとめ

今回の調査では次のことがわかりました。

①奈良時代前半の大型の東西棟建物を検出しました。

建物1は東西9間以上の大型の南廂付き東西棟建物です。床張りの構造であり、格式の高い建物であったとみられます。柱筋の検討から、南隣の調査区(第584次調査)で検出した南北10間×東西2間の南北棟建物(奈良時代前半)と一連の空間を構成していたとみられます。建物は調査区外東方へ続いており、全体像の解明は今後の課題です。

②奈良時代後半の大規模な井戸と関連遺構を検出しました。

井戸は平城宮内では内裏地区で見つかっている井戸に匹敵する規模です。また、井戸からは東西溝1・2やL字溝が派生し、溝には覆屋を設けるなど、井戸の水を計画的に利用していた様子がうかがえます。これらの遺構の状況と出土遺物の内容からみて、今回の調査区周辺は東院中枢部での食膳を準備する厨に関連する空間であったとみられます。

東院関係略年表

721(養老5) 1.23 元正 佐為王ら16人に執務終了後東宮で皇太子(後の聖武天皇)の教育にあたらせることにした。
728(神亀5) 8.23 聖武 東宮に天皇が出御し、皇太子の病気平癒を祈り諸陵への奉幣を行った。
752(天平勝宝4) 4.8 孝謙 東大寺大仏開眼供養会への行幸にあたり、大納言巨勢奈弓麻呂と中納言多治比広足を東宮の留守官、中納言紀麻呂を西宮の留守官に任じた(『東大寺要録』供養章)。
4.9 東大寺大仏開眼供養終了後、天皇は東宮に帰った(『東大寺要録』。『続日本紀』は田村第に帰ったとする)。
754(天平勝宝6) 1.7 東院に天皇が出御し、五位以上の役人と宴会(後の白馬(あおうま)の節会に相当)を催した(『万葉集』4301番の題詞では、東常宮の南大殿とする)。
765(天平神護1) 1.7 称徳 高麗福信が造宮卿に任じられた(『公卿補任』)。
767(神護景雲1) 1.18 東院に天皇が出御し、諸王など51人の叙位を行った。
2.14 東院に天皇が行幸し、出雲国造の神賀詞奏上の儀式を行った。
4.14 東院の玉殿が完成し、役人がみなお祝いに集った。瑠璃の瓦(緑釉や三彩の瓦)を葺き美しく彩色した建物で、玉宮と呼ばれた。
12.9 従五位下多治比長野を造東内次官に任じた。
768(神護景雲2) 7.17 修理職の長官・次官を任じた。この頃(768〜770)、石上宅嗣が造東内長官としてみえる(西大寺旧境内出土木簡(奈良市教育委員会調査))。
769(神護景雲3) 1.8 東内に天皇が出御し、吉祥天悔過の法要を行った。
1.17 東院に天皇が出御し、侍臣と宴会(後の踏歌の節会に相当)を催し、また、朝堂において主典以上の役人と陸奥の蝦夷の宴会を催した。
770(宝亀1) 1.8 東院において次侍従以上の役人の宴会を催した。
772(宝亀3) 12.23 光仁 彗星が現れたので、100人の僧侶を読んで楊梅宮において宴会を行った。
773(宝亀4) 2.27 楊梅宮が完成した(高麗福信が造宮職として造営を担当)。この日、天皇は楊梅宮に移った。
774(宝亀5) 1.16 楊梅宮において五位以上の役人と宴会(後の踏歌節会に相当)を催した。また、朝堂において出羽の蝦夷の俘囚の宴会を催した。
775(宝亀6) 1.7 楊梅宮の後安殿(安殿か)において宴会(後の白馬の節会に相当)を催した。(『官曹事類』逸文など)。
777(宝亀8) 6.18 楊梅宮の南の池に一本の茎に二つの花のある蓮が咲いた。
9.18 かつて藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)は楊梅宮の南に邸宅を建てた。東西の楼や槍状の南文などを内裏を遠望できる建物を建てたので、人々の顰蹙をかった(藤原良継の薨伝にみえる)。

(特記したもの以外は、『続日本紀』による)

遺構の写真

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展示遺物の写真

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説明ビデオ

パネル前での説明1

パネル前での説明2

北半での説明

南半での説明

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