2013(平成25)年3月30日(土)
平城宮跡東院地区の発掘調査を実施し、6時期にわたる建物・塀・溝・基壇状遺構など多様な遺構を確認した。特に、奈良時代末頃の中枢施設群を区画する回廊状建物を検出した点は特筆される。これらの成果により、東院地区の中枢部と西辺部の空間利用の変遷を明らかにする手がかりを得た。
平城宮は約1km四方の東側に東西約250m、南北約750mの張り出し部をもち、その南半約350mの範囲を東院地区とよんでいる。『続日本紀』などの文献から、皇太子の居所である東宮や天皇の宮殿がおかれたことが知られる。神護景雲元年(767)に完成した「東院玉殿」や、宝亀4年(773)に完成した「楊梅宮」は、この地にあったと考えられている。東院地区ではこれまで南半部および西辺部を中心として発掘調査を進めており、前者では庭園遺構の存在が、後者では総柱建物群など、掘立柱建物が頻繁に建て替えられていた様子が明らかになってきた。
特に2006年度からは、東院地区西辺部(以下、西辺部とする。)の重点的な発掘調査を継続しており、本年度もこの方針のもとに、第423次調査区(2007年度)の北、第446次調査区(2009年度)の東に調査区を設定した。
今回の調査区南側の第423次調査区では、東院中枢部と西辺部とを区画する施設の変遷が明らかになり、本調査区でもこれらの区画施設とそれに区画される建物群が展開することが予測された。また、西の第446次調査区では、東西方向の通路を検出し、この通路が機能する時期と、機能を停止し建物群が建設される時期があること、この通路を境として西辺部の性格が南北で異なっていたことが判明し、東院地区全体の空間利用の変遷を解明する上で重要な知見を得ている。この通路は本調査区にも続くことが予測されていた。
以上の成果をふまえ、今回の調査では、西辺部から中枢部にかけての遺構の様相を引き続き明らかにし、東院地区全体の空間利用の変遷を明らかにすることを調査目的とした。
調査面積は東西29m、南北35mの1015m2で、うち832m2を新たに調査した。調査は2012年12月17日に開始し、現在継続中である。
図1 奈良時代後半の平城宮
(井上和人『日本古代都城制の研究』所収図に加筆)
図2 第503次調査区と周辺の既発掘区
今回の調査では複数時期にわたる遺構を検出した。調査区は旧水田の段差により、西側の低い面と東側の一段高い面に分かれる。調査区西側では、地山上面で遺構検出をおこなった。調査区東側では、奈良時代の整地土および、奈良時代以前の古墳時代を中心とする遺物包含層が堆積しており、主に奈良時代の整地土上面において遺構検出をおこなった。
検出した遺構のうち奈良時代の遺構は、建物11棟、塀11条、溝2条、土坑3基、基壇状遺構である。このうち建物および塀は全て掘立柱建物である。これらの各遺構は周辺の調査成果を併せて6時期に区分できる。以下、各時期の遺構を古い順に記述し、さらに時期の位置づけが困難な遺構と奈良時代より前の遺構について記述する。
図3 遺構平面図
主な出土遺物には瓦磚類・土器類・金属製品などがある。瓦は軒瓦・丸瓦・平瓦が出土した。土器は、奈良時代の須恵器・土師器を中心とし、古墳時代の須恵器・土師器・埴輪も多く出土した。その他、柱抜取穴からは礎石や根石に使われたと考えられる礫石類や、基壇外装などに使用されたと考えられる凝灰岩片が出土している。
今回の調査で検出した各遺構の変遷を整理する。
今回の東院地区の発掘調査の成果は以下の3点である。
今回の調査により、南の第401・423次調査区で検出した長大な南北棟建物は、東西方向へと続く回廊状建物であることが明らかになり、その北西隅を確認したこととなる。これにより、6期の東院中枢部が回廊状建物に区画されていたこと、中枢施設が今回の調査区の南東側に位置することが明らかになった。
この回廊状建物は掘立柱の単廊形式の建物とみられる。梁行約6.0m(20尺)の異例の規模であり、同様の建物が確認されているのは東院3期(4期まで及ぶ可能性がある)の中枢施設を囲む回廊状建物のみである。また、梁行は約3.0m(10尺)であるが、東院5期の中枢施設を囲む回廊も掘立柱の単廊形式をとる。これらから、東院地区の中枢部では、3期以降、複数回の建て替えにも関わらず、単廊形式の回廊状建物で区画する施設が建てられていたことが分かる。これは、規模や位置を変えながらも、回廊状建物で囲まれた空間が継続的に使用されていたことを示し、儀式や饗宴の場として利用された東院地区中枢部の性格の一端を示唆すると考えられる。
平城宮内において、平瓦を外装とする基壇状遺構の検出は初めてである。亀腹状の土壇を保護するための手法とみられる。
この基壇状遺構については、礎石の据え付け・抜き取り痕跡など建物の柱位置に関する痕跡はなく、上部構造は不明である。また、規模が比較的小規模であり、性格については、さらなる検討が必要である。
今回の調査では、東院地区西辺部と、回廊状建物に囲まれる中枢部との空間利用の違いが明らかになり、両者の規模や建物配置が時期により変化していることが明らかになった。これらの成果は、東院地区全体の空間利用の実態を解明する上で重要な手がかりとなる。
721(養老5) | 1.23 | 元正 | 佐為王ら16人に執務終了後東宮で皇太子(後の聖武天皇)の教育にあたらせることにした。 |
728(神亀5) | 8.23 | 聖武 | 東宮に天皇が出御し、皇太子の病気平癒を祈り諸陵への奉幣を行った。 |
752(天平勝宝4) | 4. 8 | 孝謙 | 東大寺大仏開眼供養会への行幸にあたり、大納言巨勢奈弖麻呂と中納言多治比広足を東宮の留守官、中納言紀麻呂を西宮の留守官に任じた(『東大寺要録』供養章)。 |
4. 9 | 東大寺大仏開眼供養会終了後、天皇は東宮に帰った(『東大寺要録』。 『続日本紀』は田村第に帰ったとする)。 |
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754(天平勝宝6) | 1. 7 | 東院に天皇が出御し、五位以上の役人と宴会(後の白馬の節会に相当)を催した(『万葉集』4301番の題詞では、東常宮の南大殿とする)。 | |
765(天平神護1) | 1. 7 | 称徳 | 高麗福信が造宮卿に任じられた(『公卿補任』)。 |
767(神護景雲1) | 1.18 | 東院に天皇が出御し、諸王など51人の叙位を行った。 | |
2.14 | 東院に天皇が行幸し、出雲国造の神賀詞奏上の儀式を行った。 | ||
4.14 | 東院の玉殿が完成し、役人がみなお祝いに集まった。瑠璃の瓦(緑釉や三彩の瓦)を葺き美しく彩色した建物で、玉宮と呼ばれた。 | ||
12. 9 | 従五位下多治比長野を造東内次官に任じた。 | ||
768(神護景雲2) | 7.17 | 修理職の長官・次官を任じた。 この頃( 768〜770)、石上宅嗣が造東内長官としてみえる(西大寺旧境内出土木簡〈奈良市教育委員会調査〉)。 |
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769(神護景雲3) | 1. 8 | 東内に天皇が出御し、吉祥天悔過の法要を行った。 | |
1.17 | 東院に天皇が出御し、侍臣と宴会(後の踏歌の節会に相当)を催し、また、朝堂において主典以上の役人と陸奥の蝦夷の宴会を催した。 | ||
770(宝亀1) | 1. 8 | 東院において次侍従以上の役人の宴会を催した。 | |
772(宝亀3) | 12.23 | 光仁 | 彗星が現れたので、100人の僧侶を呼んで楊梅宮において斎会を行った。 |
773(宝亀4) | 2.27 | 楊梅宮が完成した(高麗福信が造宮卿として造営を担当)。この日、天皇は楊梅宮に移った。 | |
774(宝亀5) | 1.16 | 楊梅宮において五位以上の役人と宴会(後の踏歌節会に相当)を催した。 また、朝堂において出羽の蝦夷の俘囚の宴会を催した。 |
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775(宝亀6) | 1. 7 | 楊梅宮の後安殿(安殿か)において宴会(後の白馬の節会に相当)を催した(『官曹事類』逸文など)。 | |
777(宝亀8) | 6.18 | 楊梅宮の南の池に一本の茎に二つの花のある蓮が咲いた。 | |
9.18 | かつて藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)は楊梅宮の南に邸宅を建てた。東西の楼や櫓状の南門など、内裏を遠望できる建物を建てたので、人々の顰蹙をかった(藤原良継の薨伝にみえる)。 |
(特記したもの以外は、『続日本紀』による)
(『平城宮木簡』3、3006号。小子門付近の東一坊大路西側溝SD4951出土)
(『平城宮発掘調査出土木簡概報』15。宮南面西門付近の二条大路北側溝SD1250出土)
※ 東宮、東院、東内は、奈良時代を通じて平城宮東張り出し部南半にあり、皇太子がいる時はその居所「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」「東院」「東内」として利用され、宝亀年間には「楊梅宮」に改造されたと考えられる。
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