元稲荷古墳第10次調査 現地説明会 資料

元稲荷古墳後方部西辺・前方部南方の調査

2013年(平成25年)3月3日(日)
向日市教育委員会/公益財団法人向日市埋蔵文化財センター

説明文

所在京都府向日市向日町北山65-5、65-6
調査所管向日市教育委員会
調査協力向日市建設産業部 向日神社
調査期間2013(平成25)年1月21日〜3月8日(予定)
調査機関公益財団法人向日市埋蔵文化財センター(担当 梅本康広)

1 はじめに

当センターでは元稲荷古墳の保存と活用の方法を探る目的で、2006(平成18)年から範囲内容確認調査をすすめています。7年間にわたる調査で、後方部東辺(第3〜4次)及び北辺(第5次)、南辺西側裾から第二段斜面南西隅角(第6次)、西くびれ部と後方部南西隅角(第7次)、前方部前半の西側及び南西隅角(第8次)、前方部東側及び前端中央と南東隅角(第9次)の遺存状況と墳丘裾位置を確認してきました。

今回の調査は未確認であった後方部西辺の裾位置及び礫敷のひろがりを確認するとともに、前方部の南方についても丘陵を切断する「掘切り状の遺構」の実態を把握するために実施しています。)

2 調査の成果

調査の結果、後方部西辺の裾位置を確認し、第二段斜面裾までの礫敷・葺石の遺存状況を把握することができました。また、前方部の南方の「掘切り状の遺構」についてはその一部を検出するにとどまりました。以下に成果の概要を記述します。

① 後方部西辺(第1調査区)

墳丘は段丘層(地山)を削りだして前方後方形の原形がつくられ、その上に盛土が築かれています。後方部では第一段斜面の約三分の二までが段丘層で占められます。斜面の上半から葺石の転落がはじまり、段丘面が露出して樹木が生えだすと根の侵食がとどまらなくなり、墳丘は大きく損なわれていきます。調査地内でも同様に墳丘の変形、損壊が顕著な状況です。

墳丘盛土の第1層目は、旧表土系の黒茶色粘質土を用いて土手状に築く傾向が顕著に確認されます。葺石や礫敷を設ける際には、段丘面もしくは盛土の上面に暗茶色粘質土が施されています。墳裾には大きな基底石を列べず、まれに飛び石状の配石が見られる程度で礫敷と葺石の境界は不明瞭となり、裏込めや葺き足しはほとんどありません。

一方、第二段斜面の裾では長さ約20〜30㎝大の礫を列べ、背後に拳大の礫を厚く詰めてしっかりと根固めが施されています。にもかかわらず、葺石の崩落、斜面の崩壊が随所で見られます。古墳築造後間もない時期から礫の転落が始まった可能性が高いものと思われます。なお、上下の斜面裾どうしで礫の使用法が異なる理由としては、段丘面と盛土面という基盤面の強度の違いが反映されている可能性が考えられます。

基底平坦面の礫敷については墳裾から1m外側までは確実に敷設されている状況を確認してきましたが、今回は調査対象地の外にのびていくためさらなるひろがりまでは把握することができませんでした。

第一段斜面の規模は幅約3.5m、高さ約1.3mになります。第一段平坦面の幅約1.0mでほぼ水平な面がつくられています。

出土した遺物は墳丘の流土内から、讃岐系大型二重口縁壺と特殊器台形埴輪の細片が確認されました。


図1 元稲荷古墳調査成果図(1/500)

② 前方部南方「掘切り状の遺構」(第2・3調査区)

1970年に行われた第2次調査で前方部南方に東西約30m、南北約17m以上の範囲に及ぶ周辺よりも低い平坦地が確認され、前方部築成の際の土採り痕跡と想定されました。いわゆる「掘切り状の遺構」と呼ばれ、丘陵地形を切断して墓域を画する溝とも考えられています。

第2調査区では9次調査で確認した前方部前端裾の基底石が置かれた面とほぼ同じ高さでつづく段丘面が検出されました。調査区の中央付近で0.2mほど低くなりますが樹根による撹拌が顕著であり、この上面まで現代の堆積土が被さっていることもあり、古墳築造に関わる掘り込みである可能性は低いものと考えられます。

第3調査区では前方部南東隅角付近で確認した墳裾よりも0.8m低い高さで段丘層が確認されました。調査地内で葺石の転落や裏込土の分布は確認されていませんが、撹乱を免れて検出できた段丘面は平坦に安定的に南へ延びていくことから、両地点間の高低差は古墳築造時に形成されたものであると見ても大きな誤りは無いと考えられます。

3 調査の意義

今回の調査の成果については、以下のようにまとめることができます。

  1. 後方部は一辺50mの規模であることが確定した。
  2. 初期の大型前方後方墳のひとつとして、墳丘の全形と規模を厳密に捉えることができた。
  3. 墳丘は神戸市西求女塚古墳にしもとめづかと「同形墳」であると考えられる。

元稲荷古墳は前方後円墳が巨大化し、定式化した直後の3世紀後葉につくられた全国屈指の大型前方後方墳です。桜井市箸墓はしはか古墳の「モデルプラン」をもとに、その3分の1規模で設計された可能性が想定されてきました。また、第8次調査では元稲荷古墳の約2.5倍の規模にあたる天理市西殿塚古墳と墳丘の形状が要所で近似することを明らかにしました。

以上のことから、元稲荷古墳の墳丘造営にあたっては箸墓古墳を「モデルプラン」とする旧来の枠組みを継承すると同時に、西殿塚古墳で深化した傾斜地での墳丘構築の技術を援用するなど、二代にわたる大王墓の造営方法が採用されていたと想定しました。今回の調査によって後方部の四辺が把握でき、前方部の成果と合わせ墳丘全体の形状と規模を正しく復原する手がかりが揃うに至ったといえます。

元稲荷古墳ときわめて近似した規模をもつ古墳として、従来より西求女塚古墳が知られていました。今回、両古墳を実証的に比較できる材料がようやく整いましたので、検討を試みることにいたしました。

両古墳の墳丘図を同じ縮尺で重ねてあわせてみると、前方部の前端位置を除いてほとんどの箇所で墳裾の外郭線が一致する状況を見いだすことができます。

両古墳の墳丘の計測値を以下に記します。

墳丘の細部で一致しない場所が見られますが、立地する地形条件などによって異なる施工もあり得たと考えられます。両古墳は同一のモデルプランをもとに同形同大の古墳を築造しようとした可能性は高く、相互に「同形墳」の関係で捉えることができます。

「同形墳」が成立してくる背景については、「倭王権」の政治目的にしたがった造営という観点から考えておく必要があります。各地の有力首長の墳墓は大王墓と相似形の関係で築造されている事例が散見でき、モデルプランを共有する関係性の有無が王権中枢部との親疎を表示する指標になったと考えられています。

図2
図2 西殿塚古墳と西求女塚古墳との比較

古墳出現期には墳丘長290mの箸墓古墳を頂点に170m、140m、120m、100m、90mなどの大きさによって、地方首長の王権による格付けが厳格に行われていたと想定できます。

また、墳形では大王墓に前方後方墳は採用されておらず、規模から見ても前方後円墳が優位にあることははっきりとしています。ただし、墳形の異なる「同規模墳」で比較すると、埋葬施設の構造や副葬品の内容等で優劣の差は認めがたい状況です。

たとえば、向日丘陵で相前後してつくられた前方後円墳である五塚原古墳と元稲荷古墳を比較しても、墳形の違いはありますが墳丘構造や造営技術の面で質的な差を見いだすことはできません。両古墳の被葬者間で王権中枢部から与えられた政治階層的序列に大きな差異は無かったものと思われます。

つまり、墳形の違いには王権からの自立性や職能的表示が内包されていた可能性があります。したがって、向日丘陵の代々の首長であってさえも王権中枢部と距離のおき方は異なっていた見られます。

元稲荷古墳と西求女塚古墳の被葬者は同じ時代に生き、ともに王権に参画して一定の階層秩序に連なったと考えられます。しかし、前者は桂川流域、後者は大阪湾北岸といった交通の要衝地を基盤領域としており、そこでの政治経済的立場を考えれば両者の自立性はきわめて高かったものと推測されます。

王権からみればこうした立地環境と地域勢力の特性を掌握することは重要な政治課題であったものと思われます。このように地域権力として自立性が高く、王権と一定の距離をおき牽制することも可能であった立場にいた有力首長の墳墓として前方後方墳が築かれたと考えられます。

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