平安京右京二条二坊十一町・西堀川小路跡、御土居跡 現地説明会資料

2012年(平成24年)8月18日(土)
財団法人 京都市埋蔵文化財研究所

説明文と図

調査地京都市中京区西ノ京笠殿町38 京都地方気象台構内
調査面積1,257m2
調査期間平成24(2012)年5月9日〜9月7日(予定)
対象遺跡平安時代 平安京右京二条二坊十一町、西堀川小路
平安時代〜室町時代 紙屋川(西堀川)氾濫堆積
桃山時代 御土居(土塁基部、堀)

はじめに

今回の調査は、京都地方気象台の構内に計画された、京都地方合同庁舎の建設工事に先立って行っている発掘調査です。調査は土置場の都合で、調査区を南半の1区と北半の2区にわけて行い、これまでに1区の調査を終えて、現在は2区の調査を行っています。

図2 調査位置図(1:5,000)
図2 調査位置図(1:5,000)

当地周辺の歴史

この地は、弥生時代から古墳時代の集落跡である西ノ京遺跡の東端に位置し、延暦13(794)年には平安京遷都によって平安京内となりました。

平安京条坊図
平安京条坊図

平安時代は平安京右京二条二坊十一町の南東部にあたり、東に面して南北街路である西堀川小路が通っていました。西堀川小路は、道路の中央に西堀川という人工の川を通す、京内でも特殊な道路です(図6参照)。西堀川は、紙屋川を一条通付近から真っ直ぐ南に通したもので、東の堀川とともに京内を南北に貫く運河として維持・管理されていましたが、氾濫が多く起こったために早く埋まったようです。

桃山時代、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、天正19(1591)年に、京都の軍事的防御と洪水対策のために大きく京を取り囲む「御土居」を築きます。本調査地は西辺の御土居が南北に通り、その西側からは堀が検出されています。

江戸時代、御土居には竹が植えられて、角倉家(すみのくらけ)が管理を任されていました。この辺りの御土居は明治時代まで形状が残っていたようですが、当該敷地の御土居は大正2(1913)年に京都測候所(今の京都地方気象台)がこの地に移転されるまでには壊されてしまっていたようです。

当地の南、約100mの西ノ京児童公園内には昭和40年代ごろまで御土居の高まりが残されていました。さらに南約300mの市五郎大明神の境内には東西の幅30m、南北の長さ40m、高さ約3mの土塁が現存し、国の史跡に指定されています。

図1 平安京・御土居と調査地点図(1:100,000)
図1 平安京・御土居と調査地点図(1:100,000)

調査の成果

○桃山時代(今から400年前頃)

御土居に関連する遺構を検出しました。調査区の西半が御土居の堀、東半は本体が失われた土塁の基底です。土塁の西端には幅2m前後の犬走り状の平坦面が形成されています。ここでの土塁の高さは2〜3mあったようですが、大正の頃には壊され土は堀を埋めるのに使われました。今回見つかった堀は深さ2m、幅14m以上あり、堀の西端は敷地外に伸びています。

堀の埋め土からは、明治時代以降の新しい遺物に混じって、平安時代の遺物も多く出土しました。

図3 桃山時代遺構平面図(1:400)
図3 桃山時代遺構平面図(1:400)

図4 遺構断面積模式図
図4 遺構断面積模式図

○平安時代から室町時代

御土居の土塁基底部から下層の平安時代前期の西堀川小路までは2〜2.5mの厚さの堆積層があります。これは西堀川(紙屋川)が平安時代以降に氾濫を繰り返した結果である事が今回の調査で明らかになりました。

現在のこの周辺の地形をみると、北側のJR山陰線高架の辺りから、西大路太子道を頂点として南へ広がる高まりが残っています。これは平安時代から暴れ川であった西堀川(紙屋川)が長い年月をかけて溜めてきた土砂の高まりと考えられます。昭和19年に流路変更工事によって西の御室川に合流させるまでは、洪水や氾濫を繰り返して周辺一帯に大きな被害をもたらしていたといわれています。

洪水土砂層からは、主に平安時代から室町時代までの土器類や瓦類、他に五輪塔なども出土しました。いずれも上流から流されてきたものです。

○平安時代前期(今から1200年前頃)

調査区の東半分が西堀川小路、西半分が二坊十一町にあたります。西半分の十一町部分は、後に築かれた御土居の堀によって壊されてしまって残っていませんでした。西堀川小路部分は比較的良く残っており、道路中央の西堀川と道路の西側溝が見つかっています。西堀川の幅は約5m、東西の両岸には護岸のために槍の丸杭が何列も打たれています。西側溝は幅3.5〜5m、中央が深く凹む溝で、道路側溝としては幅が広いものです。溝の中央には粘土質の土が堆積して、木製品や土器類、馬の骨などのほか、水晶製の数珠などが良好な状態で見つかっています。日常雑器ばかりではなく、何らかの祭祀に使われたものが多く見つかっています。

図5 平安時代前期遺構平面図(1:400)
図5 平安時代前期遺構平面図(1:400)

図6 西堀川小路断面模式図
図6 西堀川小路断面模式図

おわりに

今回の調査では、平安京の施工の時に西堀川として京内を南北に貴く形で維持・管理された紙屋川が、後に氾濫や洪水などを繰り返して土砂を堆積させていく様子が明らかになりました。その堆積は広範囲に及んでいたとみられ、右京が衰退する原因の一つとも考えられます。

当地には桃山時代に京都を因って城塞都市化するために築かれた御土居が南北に通っています。明治時代以降に土塁本体の高まりはほぼ完全に削られて失われていましたが、今回の調査で外側の堀は深く、幅広く掘られていたことが明らかとなりました。

御土居:
天下統一を成し、京都を本拠地とすべく豊臣秀吉が手掛けた京都大改造の仕上げとして京都を囲い込むために天正19(1591)年に築いた土塁と堀の総称。北は上賀茂・鷹峯、西は紙屋川から東寺、東は鴨川西岸、南は九条通まで、南北8.5km、東西3.4km、総延長は22.5bnに及ぶ。外側に堀を掘って、内側に土塁を築き、要所に切通しの出入口を設けた(京の七口)。正月に作り始め、5月までには完成したといわれる。内側は洛中、外側は洛外と呼ばれた。
西堀川小路:
平安京右京の南北小路の一つ。他の小路(幅4丈:約12m)と異なり、幅8丈(約24m)であった。中央に幅2丈(約6m)の西堀川、その東西両側に幅2丈の道路敷き、さらに両側1丈ずつあって側溝、築地が設けられていた。西堀川は、現在は紙屋川・天神川とも呼ばれ、戦前に洪水対策で太子道付近から大きく西へ流路の変更工事を行って御室川へ合流させられるまでは、南へ流れて南区で桂川に注いでいた。
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