相国寺旧境内・上京遺跡の発掘調査

2011(平成23)年6月11日(土)
同志社大学歴史資料館(財)京都市埋蔵文化財研究所

今回の調査のあらまし

今回の発掘調査は、同志社大学烏丸キャンパス新校舎建設に伴う調査で、調査期間は2011年1月11日〜6月30日です。調査地は相国寺旧境内の西辺部にあたり、縄文時代から江戸時代までの複合遺跡である上京遺跡の範囲にも含まれます。このため、調査にあたっては、相国寺造営前後の様子や、その後の変遷を明らかにすることを目的としました。また、下層からは古代の村などが発見される可能性があるため、これも確かめる予定です。

調査地周辺の歴史

調査地の周辺では、東方の承天閣美術館敷地の調査で、飛鳥時代から奈良時代の住居跡を発見しており、古くから人々が住んでいたことがわかります。平安時代の終わり頃には、平安京の北側まで道路が延長されたと考えられ、北側の烏丸中学校体育館や西側の室町小学校体育館の調査では、この時期の遺構・遺物が発見されていません。ところが、鎌倉時代から室町時代初めにかけて、周辺ではほとんど遺構・遺物が発見されていません。ただ、相国寺を造る際の史料に「近辺の住居を遷し」とあり、相国寺が造営される前も住居地となっていたことが知られます。永徳二年(1382年)、足利義満によって相国寺が創建されます。相国寺は応仁・文明の乱(1467〜1477年)などの戦火や火災に何度も遭い、その度に再建されました。そして安土桃山時代以降には、寺之内通りなどが造られ、ほぼ現状の地割りができあがります。また、江戸時代になると相国寺境内の絵図が作成され、境内地の様子が具体的分かるようになります。それによると、調査地は「大光明院」や「普廣院」などの塔頭の敷地に含まれています。

その後、明治時代になると相国寺の境内は縮小して、西側は市街地となり、ここには大正5年に京都市染織試験場が建てられました。

調査地の様子

これまでに江戸時代後半頃の遺構(第1面)・江戸時代前半頃の遺構(第2面)の調査を終え、現在は鎌倉時代・室町時代・戦国時代の遺構(第3面)の調査を行っています。

今回の調査地と周辺の調査地(1:5,000)

鎌倉時代(13世紀)

調査区中央の東西方向の溝400を発見しました。大きさは幅2m・深さ1m前後で、断面逆台形を呈し、底は平らです。埋められた時期は出土遺物から鎌倉時代で、相国寺創建以前と推定できます。この他、溝900・溝1351も同時期の可能性があります。

室町時代(14〜15世紀)

調査区東部で南北方向の石敷道路800を発見しました。道路幅は5m程度で、路面に1〜2cm大の小石を敷いて舗装しています。路面は複数面の重なりがあり、何度か補修されています。道路の状況は、調査地南側300mの今出川キャンパスの発掘調査で発見した南北道路に類似しており、方位は若干東に振れるものの、この道路の北への延長部分と考えています。現烏丸通りから約110m東側に位置することから、平安京の条坊道路を北に延長した道路(東洞院大路末)とも推定できます。埋められた時期は室町時代中頃です。調査区西部では南北溝1300を発見しました。大きさは幅1.5m・深さ0.5mで、中には焼けた瓦・土器などが大量に捨てられていました。応仁・文明の乱頃にはじまる戦乱などで、仏堂が焼け落ちた後かも知れません。また、同時期の柱穴・ゴミ捨て穴・地下蔵・井戸・墓などが調査区全域に散在しており、塔頭に関係する施設が広がっていたと考えられます。

戦国時代(15世紀末〜16世紀)

調査区北部で斜め方向の堀3、南北方向の堀650・堀1400、東西方向の堀649・堀666を全域にわたって発見しました。堀の規模はいずれも幅3m、深さ2m前後で、断面逆台形を呈し、底は平らです。堀は重複しており、頻繁に掘りなおされています。烏丸中学校内の調査でも同様の堀が発見され、この地域一帯にこのような堀が多く造られたと考えられます。造られた時期は出土遺物から戦国時代で、天文五年(1536年)には天文法華の乱が起っています。同年の史料には「東門前に堀構えを整える」とあり、寺域周辺に防御用の堀が造られたと考えられます。さらに、上京域には町を堀や柵で囲む防御用の「総構」が造られたことが知られ、当時の上京域の緊張した様子が伺えます。堀650からは桐文軒丸瓦が出土し、他にも土師器のほか瓦器や陶器・磁器などが出土しました。なお、石組みの地下蔵から出土した土師器には、外側に金箔を施したものもあります。

江戸時代(17〜18世紀)

江戸時代前半の遺構は少なく、この地域が空閑地になったと考えられます。この時期の遺構には堀350・井戸500があります。井戸500からは、初期の伊万里産大皿や黄瀬戸椀・丹波産すり鉢などが出土しました。江戸時代後半になると多くの遺構が検出され、土器や瓦などが多量に出土することから、この場所はふたたび塔頭として使われていたようです。また、調査区南西部には、鳥丸通り沿いの町屋のごみ捨て穴と思われる遺構から多数の土器や瓦片がみつかりました。

主要遺構の配置(1/400)

遺構図

写真1:焼瓦・焼土で埋まった溝1300(15世紀・室町時代後半)
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写真2:石組みの墓(16世紀・戦国〜安土桃山時代)
写真2

写真3:町屋のゴミ捨て穴(18世紀・江戸時代後半)
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写真4:石組の地下蔵(16世紀・戦国〜安土桃山時代)写真4

写真5:井戸500(17世紀・江戸時代前半)

井戸500から出土した伊万里産大皿(17世紀・江戸時代前半)

写真6:石組の墓(16世紀・戦国〜安土桃山時代)

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