史跡古市古墳群 峯ヶ塚古墳

羽曳野市教育委員会

峯ヶ塚古墳

峯ヶ塚古墳は一般の立入りが制限されている陵墓(りょうぼ)の多い古市古境群にあって、古墳を間近に見ることができる数少ない前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の一つです。古墳の構造や当時の社会などを理解する上で欠かせないことから、国の史跡に指定され、これまでに古墳整備に伴う継続した発掘調査で多くの成果を得ることができました。

墳丘(ふんきゅう)は全長96m、後円部直径56m、前方部幅74.4mを測り、二段に築かれ、くびれ部の北側には造出(つくりだ)しを設けます。墳丘の周囲には幅18mの内濠(うちぼり)がめぐり、現在のため池がその名残りです。その外側には内堤(うちづつみ)、更に外側には外濠(ぞとぼり)をめぐらせます。この外濠は傾斜する地形の影響で場所によって幅や深さなどに違いがありますが、古墳の西・北・東側に巡らされていることが確認されました。

墳丘の盛土(もりつち)は土質の違いや積み方などによって4段階の築造過程が復元されます。各工程で使用される土砂の種類は粘土質や粘土、砂質土を区別し透水性(とうすいせい)や締(し)まり具合などを考えて盛り土を施しています。このことは、南側の内堤の盛土の調査でも確認されました。葺石(ふきいし)は墳丘上段斜面の裾部分のみに施され、盛土を行なう時に崩(くず)れ易い下部を補強するためのもので、墳丘斜面の全面に施されていませんでした。

第4次調査の時に後円部墳頂部で見つかった石室は、盗掘(とうくつ)で天井(てんじょう)や側壁(そくへき)の石は抜き取られていましたが、現墳頂より約3m下に築かれていました。大きさは東西約4.3m×南北約22mの長方形で、石室内部の高さは石室背面の土層の状態から約19mと復元できます。未調査部分がありますが、現時点では竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)と考えられます。また、石室には刳抜(くりぬ)き式の舟形石棺(ふねがたせっかん)(家形石棺の祖形)が安置(あんち)されていたと考えられます。石棺は阿蘇産(あそさん)の溶結凝灰岩製(ようけつぎょうかいがんせい)で、色の違う2種類の石材が見つかっていますが、長持山(ながもちやま)古墳(藤井寺市)2号棺と同じように一つの石棺で、蓋(ふた)と身(み)の部材による色の違いと考えられます。

峯ケ塚古墳の復元
復元図

今回の調査位置
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盛土の状況
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葺石の状況
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墳頂で見つかつた石室
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※サイト管理者注:配布資料の写真はモノクロコピーだったので、展示されていた同じ写真パネルを掲載しています。

第12次確認調査

今回の発掘調査は、前方部墳丘裾の位置と構造を確認するために、平成23年1月20日より開始しました。

調査は墳丘南西隅部分に2箇所の調査区を設定し、ため池の泥土などを除去しながら掘り進め、現在のため池の底から約2m下で墳丘裾部分を確認することができました。

【第1調査区】

墳丘隅の南面に設定した調査区で、上面で切幅4.7m×長さ10.5m(最大)の範囲を調査しました。

調査区東側の断面などの観察により、上層約1mは現在のため池の泥土や砂層です。その下には一部、地山層が現れていますが、何か所もの凸凹があることから、江戸時代の浚渫(しゅんせつ)(ため池の底の土をかき出す)による掘り込みと考えられます。同じような凸凹は墳丘くびれ部の南側の発掘調査でも見つかっています。

この層の墳丘側では、固いレンズ状の塊(かたまり)が見られますが(断面図の■部分)、これは本来、境丘に盛られていた土砂で、濠の中へ崩れ落ちたものです。一方、そのすぐ下の層には、中世の土器(土師質小皿)の破片が出土していることから、崩れたのは13世紀後半頃以降であることがわかります。

その土器を含む土層の下部では、円筒埴輪の破片や転落してきた葺石などが見つかっており、古墳のテラス面や墳丘の一部が崩れていたと考えられます。これらの土層は約0.6mの厚みで堆積していますが、この層の下では地山面を大きく掘り込んだ遺構が確認でき、そこに濃い灰色の粘土層が堆積していました。この場所は、現在の墳丘裾から約6m南側の位置で、同じ深さで南側へ続くことから、この遺構が古墳本来の濠であると判断されます。

この濠底部分は、標高38.9mを測り、約15m東側で平成2年度に確認された濠底の数字と一致します。また、その位置は、過去の確認調査で復元される位置にほぼ一致することから、峯ヶ塚古墳の墳丘の大きさや形を知る上で更なる成果となりました。

【第2調査区】

墳丘隅の西面に設定した調査区で、上面では幅6m×長さ10m(最大)の範囲を調査しましたが、墳丘裾をさらに確認のため拡張しています。調査区北側の断面などの観察により、その堆積状況は第1調査区とほぼ同じです。

この調査区では、現在の墳丘裾から約5m西側の位置で、地山を大きく掘り込む遺構が確認され、そこに濃い灰色の粘土が堆積していました。この部分は、標高39.4mを測り、約22m北側で平成2年度に確認された濠底のレベルに近い値となっています。また、この墳丘裾部分も、過去の確認調査で復元される位置にほぼ一致しています。なお、この濠の底部分は調査区の範囲では南側に向かって、徐々に高くなっています。

第12次調査位置図と墳丘裾復元位置
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平面図
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第1調査区東側断面図
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古市古墳群

古市古墳群は、巨大な前方後円墳をはじめ円墳や方墳など大小さまざまな古墳が約4km四方の範囲に密集して築かれています。発掘調査で見つかった古墳も含めて、約125基以上の古墳が確認されています。全国で前方後円墳が約5,200基ある中で、群内の前方後円墳は大きさで上位にランクされることから、明らかに当時の支配者である大王の墓と考えられます。

この古墳群には、墳丘長425mの応神陵(おうじんりょう)古墳を盟主として、墳丘長が200mを越える前方後円墳が6基、100から200mのものが9碁あります。また、天皇陵や皇后陵として宮内庁より治定(じじょう)されている前方後円墳が8基あり、陵墓参考地や陪家も多数存在します。これらをはじめ群内の前方後円墳は、4世紀末から6世紀中頃に築かれます、その大きさは5世紀中頃にピークを迎えます。

これらの前方後円墳の卓越した大きさを考えると古墳は単なる大王墓と言うだけでなく、葬られた人物の身分や権威の大きさを象徴していると言えます。また、古墳そのものだけでなく、石室や石棺、副葬されたアクセサリーや武器・武具などの品々を調べると、当時の大陸との文化や技術の交流が存在したことが明らかとなり、古市古墳群の研究からは日本の古墳文化の発展や古代国家の在り方などが見えてきます。

さらに、これらの古墳の中には中国の南朝へ使いを送ったとされる「鹿の五王」とされる人物も含まれていると考えられ、文献史料の少ない謎の5世紀を撃える上で重要な存在です。

現在、古市古墳群は、堺市の百舌鳥古墳群とともに、「世界文化遺産」への登録をめざしており、平成2望年11月には「世界遺産国内暫定リスト」に登載されたことから、世界文化遺産ヘ一歩近つきました。

今後、羽曳野市では世界遺産をめざず“古墳群のあるまぢ’にふさわし<、峯ケ塚古墳周辺の環境を整え、古墳の復元整備を市民の皆さんと進めていきます。

古市古墳群分布図

これまでの各次調査位置図
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