茅原大墓古墳第4次調査

2011(平成23)年2月26日(土)
桜井市教育委員会

調査位置
桜井市大字茅原718、721、723−1、723−2
調査原因
史跡整備に向けた、古墳形態の確認調査
調査期間
平成22年11月16日〜実施中
調査面積
235m2
調査機関
桜井市教育委員会

1.はじめに

茅原大墓古墳は、桜井市北部の茅原集落の北側に位置する古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)の古墳です。後円部に対して前方部の規模が小さい「帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)」と呼ばれる前方後円墳で、その典型的な事例として昭和57年に国史跡に指定されています。

桜井市では現在、この古墳の重要性を考慮し、より多くの方々に見学していただけるよう史跡整備を行いたいと考えています。それにさきがけて平成20年度より、古墳の形態確認を目的とした発掘調査を実施してきました。平成20年度の第2次調査、21年度の第3次調査により、後円部頂や2段目平坦面の埴輪列、前方部東側面の葺石などが検出されており、古墳の全体像が徐々に明らかになりつつあります。今年度は、主に古墳の東側から北側にかけて調査区を設定し、墳丘構造・周濠形態の解明を目指して調査を実施しています。

2.調査の成果

(1)検出された遺構

後円部東側(第1トレンチ)、東側くびれ部(第2トレンチ)、前方部北側(第6トレンチ)において、墳丘端の斜面に葺かれた葺石(ふきいし)が確認されました。これらは墳丘の輪郭を復元する上で重要な成果であり、今回確認されたデータを参考とすると、後円部径は約72m、墳丘全長は約86mに復元されます。ただし前方部北東隅部分(第3−4トレンチ)では墳丘端が明確ではなく、今後の調査において再度確認をする予定です。

このほか、第5トレンチでは前方部東側斜面の葺石と、1段目の平坦面が確認されました。これにより前方部は2段に築成されていることが明らかとなりました。またこのトレンチでは、前方部上面において埴輪棺(はにわかん)が1基確認されています。

今回の調査では埴輪列は検出されていませんが、くびれ部基底に近い位置で埴輪1個体が樹立した状態で見つかっています。この埴輪の形態については現在のところ不明であり、取り上げたのちに検討したいと考えています。

(2)出土遣物

過去の調査において円筒埴輪や蓋型(きぬがさがた)埴輪が確認されています。これに加え、今回の調査では壷型(つぼがた)埴輪のほか、形象(けいしょう)埴輪として盾持人(たてもちびと)埴輪、鶏形あるいは水鳥形と思われる埴輪などの存在が明らかとなりました。

盾持人埴輪(第2トレンチより出土)は、墳丘東側のくびれ部付近に流れ落ちた状況で出土しており、頭部から盾(たて)面の上半部にかけての高さ67cm分が残存していました。幅約50cm、高さ47cm以上の長方形と推定される盾部分には、線刻による文様が表現されています。顔面部分は平面的で、表面には赤色顔料が塗られています。また顎(あご)の部分は張り出しており、入れ墨と思われる表現が見られます。頭部には管と思われるものを被った表現が見られます。

3.茅原大墓古墳の評価

茅原大墓古墳が位置する奈良盆地東南部では、3世紀代の古墳出現期から大型古墳が連綿と築造され続けてきました。なかには大王墓と見られる200m以上の巨大古墳も含まれており、この地域を根拠とした勢力が、当時の政権内において中心的な位置を占めていたと考えられます。しかし4世紀後半以降になると、奈良盆地東南部では巨大古墳が築造されなくなり、かわって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになります。これは政権内における勢力変動を反映しているとされており、この時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、盆地北部や河内地域を根拠とする勢力がより強大になったと考えることができます。

茅原大墓古墳は奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳であり、これを最後に付近では大型古墳が築造されなくなります。それ以前の古墳よりも小さい86mという墳丘規模は、そうした時代背景を示していると考えられます。

また「帆立貝式古墳」とよばれる古墳の形態は、茅原大墓古墳と同じ4世紀末頃より多く見られるようになります。これは前方後円墳を築造することが「規制」された結果、創出されたものという考え方があります。茅原大墓古墳に葬られた首長も、そうした規制を受けた可能性があります。

このように茅原大墓古墳の墳丘形態や規模は、この地域の勢力の衰退を象徴的に表していると言うことができるでしょう。

4.盾持人埴輪の評価

盾持人埴輪は、これまでに50箇所以上の古墳・遺跡において出土しており、関東地方において最も多く分布し、次いで近畿や九州で多く確認されています。他の形象埴輪とは異なり、古墳の外縁部に置かれる例が多く、外側の邪悪なものから古墳を守る「辟邪(へきじゃ)」の意味を持つものと考えられます。

その大半は5世紀後半から6世紀代に属するものであり、これまでは5世紀前半の墓山(はかやま)古墳(羽曳野市・藤井寺市、全長225mの前方後円墳)より出土した人物の顔面部分が表現された埴輪や、4世紀末〜5世紀前半頃の拝塚(はいづか)古墳(福岡市、全長約75mの前方後円墳)の盾持人埴輪が、その最も古い事例とされてきました。今回出土した盾持人埴輪は、これらよりも先行する時期に属するものと考えられ、盾持人埴輪としては最も古い事例とすることができます。また人物を造形した埴輪としても、最も古く位置付けることができます。

このように今回出土した盾持人埴輪は、それ以前には埴輪の造形として存在しなかった人物の表現をいち早く取り入れた事例と言うことができます。武人形や巫女(みこ)形などの人物埴輪は、古墳時代中期中頃以降の埴輪祭祀(さいし)を特徴づける重要な一要素とされます。茅原大墓古墳の盾持人埴輪は、これらの人物埴輪のように胴や手足の表現を持ちませんが、顔面表現を採用したという点において、それまでの埴輪とは一線を画しています。こうした埴輪の出現は、古墳時代中期中頃以降に盛行する埴輪祭祀が生まれる大きな契機となったと考えられるでしょう。

茅原大墓古墳 墳丘推定復元図(S=1/600)

墳丘推定復元図

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