城山古墳は、古市古墳群の北側、羽曳野丘陵の最北端に位置します。古市古墳群内では最も古く造営された前方後円墳です。室町時代に小山城が築かれたため、墳丘にはかなり削平を受けていますが、墳丘裾部はもとの形状をとどめています。墳丘長208m、後円部径128m、前方部幅117mを測り、前方部を南東に向け、墳丘は3段築成でくびれ部両側に方墳状の造出しを備えています。周囲には二重の濠と堤を備えており、それらを含めた全長は約440mにものぼります。墳丘に葺石を施しており、内壕の内外面にも葺石を健施しています。
明治45年に後円部の竪穴式石槨から蓋石に亀甲紋を刻んだ長持形石棺が発見され、内外から鏡や巴形銅器などの銅製品、硬玉製勾玉や石製腕飾類などの石製晶、素環頭刀身や三角板革綴短甲などの副葬品が出土しました。津堂八幡神社入口の標石と葛井寺境内の忠魂碑、小山善光寺と津堂専念寺の巨石はこのとき運び出された天井石を転用したものです。天井石は兵庫県高砂市伊保山付近の流紋岩質凝灰岩(竜山石)の可能性が高く、裏面には一部ベンガラが残っていました。
戦後、末永雅雄氏は、航空写真による墳丘の観察で、濠外に80m幅の付属地が存在することを指摘し「周庭帯」と名付けました。
昭和33年1月21日に国指定史跡になり、さらに昭和41年3月14日追加指定を受けています。
その後、昭和55年に大阪府教育委員会による後円部西側、周庭帯での発掘調査で、二重目の濠(外濠)が見つかりました。
昭和58年の藤井寺市教育委員会の範囲確認調査では、東側内濠に島状遺構が確認されています。島状遺構は一辺17m、高さ1.5mで、斜面には葺石が施されていました。南側の傾斜面には浅い凹みが造られており、その上辺近くには水鳥形埴輪が3体据えられていました。水鳥形埴輪は平成18年に重要文化財に指定されました。
これまでの発掘調査では円筒、新顔形円筒、鰭付き円筒埴輪や家、衣蓋、衝立、盾などの形象埴輪が出土しています。造営年代は埴輪や石棺および副葬品から4世紀後半の年代が考えられます。
史跡城山古墳調査区位置図
現在、宮内庁によって陵墓参考地になっている後円部北側は、長年の土砂流出によって崩壊してきており、宮内庁との境界のネットフェンスの基礎部が露出しているため、墳丘を保護する盛り土工事を予定し、そのため後門部墳丘の範囲確認調査を実施しました。調査区は古墳の中軸線にほぼ直交するN60ラインの墳丘部に幅2mで延長50mの約100m2を設定しました。
トレンチ平面図
城山古墳は中世に小山城として、その後も多くの地形の改変が行われたと推定していましたが、今回の調査では、古墳時代としては墳丘外表施設の一部を、中世では城郭遺構の一部を確認しました。
今回の調査で、1段目の葺石、テラス、2段目の葺石がよく保存されている事がわかりました。
なお、前回確認した墳端の基底石と2段目の基底石の水平距離は15mを測ります。
墳丘部遺構図
中段上の現状のテラス状地形は、掘削すると中世の遺物が出土し、上面では2条の溝を検出しました。北側の溝には小礫や瓦、埴輪などが入れられており暗渠状になっていました。断ち割りの結果、盛り土内から室町期の軒瓦を含む中世遺物や端部からは石列を検出しており、土塁状遺構と思われます。
石列は川原石を外側に面をそろえて3段から4段積んでおり、それが中世小山城の遺構の一部である可能性が高まりました。
また、中段下の広いテラスやその下の斜面では、大規模な造成跡が認められます。古墳時代の茸石の上に、墳丘上段に葺かれていた大振りの川原石を一部壇状になるように積み、その上に1m以上の盛り土を施し大きな幅のテラスを形成しています。これは東側の地形にも残存しています。
古墳のテラス面では造成石積みの下にさらに巨石を使用した遺構(井戸?)を検出しました。このことから中世遺構は二時期存在する可能性が考えられます。
断面図(中世遺構)
中世土塁状遺構・立面国
墳頂部付近では、上層流土から板状割石や板石、白色玉石、ベンガラの付着した粘土が出土しました。この土はトレンチ南側の墳頂付近にだけ認められる事から、明治45年の主体部発掘時に落とし込まれた排土の可能性があります。割石・板石は竪穴式石様に使われたものでベンガラが付着しているものもありました。ベンガラ付着粘土は主体部を覆っていたものと思われます。
奥田尚氏の鑑定により板状割石は安山岩で柏原市亀の瀬付近、同市芝山付近、羽曳野市春日山付近の3ヶ所から運ばれたと思われます。また、板石は紅簾石石英片岩を含む数種の片岩が認められますが、兵庫県南淡路市沼島の北部海岸が採集地の可能性があります。
白色玉石も3種類あり、それぞれ福井県九頭竜川周辺の流紋岩、山陰から北陸にかけての日本海の海岸の■、淡路島南部の海岸か沼島の石英質片岩の可能性が考えられます。
2段目葺石転落石内出土家形埴輪
埴輪と古代土器、中世遺物が認められます。
埴輪は円筒埴輪と形象埴輪があります。円筒埴輪は比較的薄い器壁で突帯も細い台形で高いものが中心です。透し孔は方形と円形のものが混在しますが、前者が多い傾向にあります。
また、鰭部の破片が墳頂部付近や、葺石転落石内から出土しており、外堤で確認されていた鰭付き円筒埴輪が墳丘でも樹立していた事がわかりました。
形象埴輪としては、家、衣蓋、盾形埴輪が出土しています。家形埴輪は屋根部及びねずみ返し部が出土しましたか、復元するとかなり大型品である事がわかります。
古代の土器は、茸石転落石内から出土した無色土器があります。
中世遺物はほとんどが瓦類で、軒瓦、丸瓦、平瓦が出土しており、中世後期のものが中心です。また、土塁状遺構の盛り土からは古代の瓦も出土しており、城山古墳西側の津堂廃寺所用の瓦を使用している可能性もあります。
軒丸瓦は巴紋で、外区の珠紋帯と内区巴紋との間に圏線が認められず、珠紋は小振りである特徴から室町期のものと考えられます。
今回、城山古墳という古市古墳群、百舌鳥古墳群の中で最も古い時親に造られた前方後円墳の墳丘部にトレンチを入れた事に意義があると思われます。墳丘内を調査したのは、明治45年に墳頂部で竪穴式石櫛及び長持形石棺を発見した以来、約100年ぶりのことです。さらにこのような墳丘長200m級の前方後円墳で1・2段目の葺石、テラスまで確認した例は他にあまりありません。
2段目の墳丘葺石には小振りの川原石を墳丘盛土に埋め込み、裾には大きな基底石を二重に据えていました。
テラス面は6mの幅がある事が判明し、上面には小礫を敷いていました。中央部には小礫敷きはなく、円筒埴輪が樹立していました。城山古墳で原位置の円筒埴輪列を確認したのは初めてです。これらの埴輪は従来考えられているように、前期的特徴の中に中期的な要素が出現しつつある過渡期のものであることが再認識できました。年代的には最近の年代観を加味すると、4世紀後半でも早い時期が考えられます。
なお、今回の調査数値から城山古墳復円部を復元すると、後円部頂径が20mで、4段築成である可能性が考えられます。これらの成果は今後大型古墳の墳丘規格を考える指標となるでしょう。
また、中世小山城の遺構を確認した事も意義があると思います。従来、城山古墳は中世に城郭として改変されている事はわかっていましたが、その後のさらなる改変で城郭遺構も破壊されていると考えられてきました。しかし、今回の調査で中世期の土塁状遺構や大境模造成跡が確認できた事によって、現在残っている地形も、城郭当時のものが残存している可能性が出てきました。
また、室町時代の瓦が少なからず出土している事から、中世城郭の一部に瓦葺きがなされている可能性が出てきました。
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