甘樫丘東麓遺跡

配布資料

独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所 都城発掘調査部

表紙写真

調査位置図/遺構図

調査位置図
調査位置図

調査区

調査区全景(北から)
調査区全景(北から)

石組溝と土器廃棄土坑(北西から)
石組溝と土器廃棄土坑(北西から)

石敷(南東から)
石敷(南東から)

石垣南端(南西から)
石垣南端(南西から)

説明文

甘樫丘東麓遺跡の調査

甘樫丘は、飛鳥川の西岸にある標高145mほどの丘陵で、周囲には多数の谷が刻まれ複雑な地形となっています。『日本書紀』には、皇極(こうぎょく)天皇3年(644)この丘に蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子が家をたてたことが記されています。遺跡は、丘の東南麓にある谷のひとつに位置します。1994年の調査で、7世紀中頃の焼土・焼けた壁土・炭化した木材・多数の土器などを含む土層が確認されました。その後、公園整備を契機として2005年度からは継続的な調査を実施しています。2006年度には7世紀前半の石垣を約15mにわたって検出し、この谷が7世紀の前半から末にかけて大規模な造成を繰り返しながら継続的に利用されていた様子が明らかになりました。2007年度の調査では谷の奥部に掘立柱建物が複数建てられていたことが判明しています。こうした調査から、宮殿や寺院の立ち並ぶ飛鳥の中心部に対し、周辺の丘陵裾部での土地利用の一端が明らかになってきました。

今回の調査では、石垣がどのように続いていくのかを確認することと、遺跡の東辺部の状況を明らかにすることを主な目的としています。調査は2008年12月17日から開始し、現在も継続中です。調査面積は1,150m2です。

今回の調査成果

これまでの調査成果と同様に、土地の造成を重ねながら7世紀の前半から繰り返し土地利用を行っている様子を知ることができました。

7世紀前半〜中頃

遺跡の中央にあった谷筋の東岸に大き目の石を積み、石垣を築きます。今回の調査では石垣の途切れる南端を確認し、2006年度の調査と合わせて全長34mにわたるものであることが明らかになりました。この石垣は7世紀中頃に谷とともに、大規模な整地によって埋め立てられています。調査区南東隅の山寄りのところでは、幅1.5〜3mの石敷を検出しました。山側に綾取りとなる石を並べ、谷側には石組の溝をめぐらせています。また、調査区北端にある土器廃棄土坑(どこう)からは50点をこえる土師器(はじき)・須恵器(すえき)が出土しました。

7世紀後半

長さ12m以上に及ぶ石組溝が、ほぼ直線に北西から南東に設けられています。側石は多くが抜き取られていますが河原石を3石並べた底石が残っていました。

7世紀末〜8世紀初頭(藤原宮期)

石組溝の東側で検出した土器の埋設遺構があります。須恵器の杯に蓋をかぶせ穴を掘って丁寧に埋めてありました。炉跡の可能性のある焼け土の面や石組遺構もこの時期のものと考えられます。

遺物写真

土器廃棄土坑(7世紀中頃・南東から)
土器廃棄土坑(7世紀中頃・南東から)

土器埋設遺構(7世紀末〜8世紀初頭・南から)
土器埋設遺構(7世紀末〜8世紀初頭・南から)

廃棄土坑出土須恵器
廃棄土坑出土須恵器

廃棄土坑出土土師器
廃棄土坑出土土師器

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