平安京右京六条一坊十四町 現地説明会資料

平安京右京六条一坊十四町現地説明会資料
(財)京都市埋蔵文化財研究所

所在地
京都市下京区中堂寺粟田町
調査期間
2008 年10 月1 日から継続中
調査面積
約2,000m2
調査機関
(財)京都市埋蔵文化財研究所(http://www.kyoto-arc.or.jp

はじめに

今回の調査は建物建設に先立って行われたものです。調査地は、平安時代の条坊呼称でいえば右京六条一坊十四町にあたります。平安京全体から見た位置では東西の中央よりやや西側、南北の中央よりもやや南側に位置します。調査地周辺は、これまで数多くの調査が実施されており、平安京の中でも広い範囲で平安時代の様相が明らかになっている地域です。その中の十四町域は、過去の調査と併せてその約半分の面積の調査を実施したことになります。

何が発見されたのか

今回の調査では、主に平安時代前期(9世紀代)の建物遺構が検出されています。10 世紀のものはなく、この頃には無住の地になっていたようです。794 年に長岡京から平安京に遷都されて約100 年間の土地利用が明らかになったのです。建物跡などの遺構は、出土した土器などからみて大きく3時期にわかれます。

I期の遺構としては門状遺構1・2・3・溝36 等があります。門状遺構(以下門と表記)は2個の柱穴が1対となった遺構で掘形(柱を立るための余掘穴)が通常の建物より大きいのが特徴です。門1では掘形の一辺が約1mありましたが、柱そのものの痕跡は径0.2 mと比較的細いものでした。

II期の遺構は建物1・5、塀1~3、III期の遺構として建物2~4があります。II・III期の建物は、いずれも比較的小規模なことから宅地のなかでも主要建物ではないと考えられます。そして、これまでの調査成果と併せて今回の遺構をみた時、十四町では、I期とII・III期では土地利用の在り方に大きな変化が存在したようです。

これまでの調査成果と併せてみると

門状遺構が作られる時期(I期・9世紀前半)

平成2〜7年の調査と今回の調査で十四町の様子が明らかになってきました。これによると、平安時代の初期(9世紀前半)には一町の中央付近に南北方向の川が流れていたことが確認されています。そして町の東側を中心に今回の門も含めて8基の門が確認されています。またこれに伴う柵列などもありますが、建物は見つかっていません。

門状遺構の性格はわかりませんが、いずれも宅地の内部にあり門としては不自然です。また、平成4年の調査では今回検出した門1の東側20 mと35 mの位置で同様の遺構が2基みつかっており、これらの3基が川に向かって東西に並ぶことになります。この川では土馬や人面墨書土器などの祭祀に使われる土器や「水取」・「寮」・「厨」銘などの墨書土器が見つかっており、祭祀あるいは儀式に係わる遺構かも知れません。

邸宅の時期(II~III期・9世紀中頃から9世紀末)

この頃は宅地として利用されています。平成4年に今回の調査地の東隣で行われた調査では、9世紀後半の邸宅の中心建物となる大規模な建物(SB5)が確認されています。この北側にもいくつかの建物が南北に並ぶようにありますが、建物配置からは南群(SB4・5)と北群(建物5、SB 54)の大きく2つにわかれます。南群は、邸宅の主人が生活を行ない、また儀式などにも使用される表向きの空間。北群は、邸宅を維持するための厨房など様々な施設がある裏向きの空間と考えられます。今回の調査で検出された塀1・2、はこの2つの空間を分離するためのものになります。また、十四町の中央を南北に流れる9世紀代の川はこの頃も流れており、邸宅の規模は2分の1町、居住者は五位クラスの中級貴族が考えられます。

まとめ

今回の調査によって、十四町域の平安時代の様相が明らかになってきました。平安時代初期に作られた門状遺構の性格はわかりませんが、何らかの祭祀に係わる遺構の可能性があります。今後、出土遺物や類例を調べて検討することが必要となりますが、興味深い資料です。

9世紀後半の邸宅も、今回十四町の南北の中心部を調査出来た事から、邸宅の規模は2分の1町規模であるとわかりました。この規模の邸宅の建物配置がこれほど明確になった例はほとんど無く、当時の貴族邸宅を考える上で貴重な成果となりました。

平成6年調査(1) 川34 出土遺物

図1 調査地位置図

図2 調査区平面図

図3 十四町遺構配置図

図4 遺構変遷図

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