平城431次 第一次大極殿院南面築地回廊の調査 現地説明会資料

独立行政法人国立文化財機構
奈良文化財研究所
都城発掘調査部(平城地区)

※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

1.こ れまでの調査

奈良時代の前半には、平城宮の中央、朱雀門(すざくもん)の真北に大極殿(だいごくでん)が存在していました(図1A)。大極殿は、天皇即位や元日朝賀、外国使の謁見など、もっとも重要な国家的儀式がおこなわれた建物です。奈良時代後半には、大極殿は東の地区へと移るため、奈良時代前半の大極殿を第一次大極殿と称しています。第一次大極殿は、東西178m、南北318mの区画施設で囲まれており、この区画内部を第一次大極殿院と称しています(図2)。なおこの地区は、奈良時代後半には「西宮」という宮殿として整備され、さらに平安時代初めには平城太上天皇の居所として用いられたと推測されています。

第一次大極殿院南面築地回廊の調査は、東南隅(第41次)・大極殿院南門および東楼(ひがしろう)(第77次)・西南隅(第296次)・西楼(にしろう)(第337次)・西端(第360次)で実施されています。こうした調査の結果、南面築地回廊は創建(I-1期)以来、東楼・西楼の増築(I-2期)を経て、奈良時代半ば(I-4期)まで存続し、その後解体されたと考えられています。

今回の発掘調査は、第41次調査(1967年)と第77次調査(1973年)との両調査区に挟まれた未発掘区を対象としており、南面築地回廊における最後の調査となります。調査面積は約630m2(南北23.0m×東西27.5m)です(図3)。調査は2008年4月1日にはじまり、現在終盤を迎えています。

図1 平城宮の全体図(舘野和己 2001『古代都市平城京の世界』山川出版社に加筆)
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図 2 第一次大極殿院(奈良時代前半)
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図3 第 431 次調査と既往の調査地
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2 .検出遺構

(1)第一次大極殿院の時期(奈良時代前半)〔図4〕

図4 第431次調査平面図(1:150)
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第一次大極殿院は、四周を築地回廊(ついじかいろう)で囲まれた空間でした。築地回廊とは、中心に築地塀をつくり、その両側に柱を立てて屋根を支えた区画施設のことです(図5)。今回の調査では、第41次調査の検出分を含め7間分確認しました。

図5 築地回廊のイメージ(宮本長二郎1986『平城京』草思社より転載)
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南面築地回廊の基壇は、性質の異なる土を層状に搗き固める版築(はんちく)工法を用いていますが、東半部では基礎となる地面をいちど掘り下げ、その内部から版築層を積み重ねています(掘込地業(ほりこみちぎょう))。回廊基壇の断面を見ると、薄い版築層が幾層にも積み重なっていることがわかりました。また、掘込地業は回廊の柱列の周囲に限られ、築地塀の直下では地業を施していないことも判明しました。

さて、この築地回廊の基壇ですが、水田の造成(平安時代以降)によって、南側が大きく削りとられています。さらに、基壇上には拳大未満の礫が敷かれ、礎石の痕跡を探すにはこの礫層をとり除く必要がありました。そこで、礫層をいちど露出させ、写真や図などの記録を残したうえで一挙にとり外したところ、褐色を呈する基壇土の上で礎石の抜取穴(ぬきとりあな)を検出できました。この抜取穴の間隔から、築地回廊の柱間を推定することができます。すなわち、桁行は約4.6m(15.5尺)等間、梁行は約7.1m(24.0尺)と復元され、南面築地回廊におけるこれまでの調査成果と一致しています。また、基壇上では東西に並ぶ小さな穴を検出し、これらは足場穴と考えられます。しかしながら、基壇の上面が削りとられているため、築地塀の痕跡は完全に失われていました。

図6 礎石の据え付け状況(模式図)
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築地回廊で区画された院の内側は、小石を敷き詰めた広場で儀式の場に用いられていました。今回の調査でも、基壇の北側でこの礫敷(れきじき)を検出し、下位から褐色の礫混じり層(1)、黄褐色の砂利層(2)、灰色の砂利層(3)と堆積しているのを確認しています。これまでの調査で得た知見にしたがえば、(1)は回廊の創建時、(2)は東楼増築時のもので、(3)は還都後の礫敷に対応するでしょう。

このほか、築地回廊にともなう遺構として、雨落溝(あまおちみぞ)および石を詰めた溝を検出しています。回廊北縁の雨落溝は、回廊解体直前のものが不明確でしたが、礫混じり層(1)の上面で回廊創建時のもの(溝1)を見つけています。また、この雨落溝にほぼ接するかたちで、石を詰めた溝(溝2)があり、回廊付近の排水にかかわる暗渠の可能性があります。一方、回廊南縁でも、石の詰まった溝(溝3)を確認したものの、雨落溝の痕跡は残っていませんでした。

(2)築地回廊をこわす時期(天平勝宝5年(753)頃)

奈良時代の後半になると、東の地区に新たに大極殿が造られ、かつての大極殿院には「西宮」と呼ばれる宮殿が造られました。「西宮」の南を限る区画施設は、大極殿院南面築地回廊よりも北側に造られたため(図1B)、第一次大極殿院の施設は取りこわされ、基壇も化粧石がはずされ、上部が削られたと考えられます。

築地回廊の解体にかかわる遺構として、基壇外装の抜取溝が見つかりました。この溝は基壇の北縁・南縁でそれぞれ見つかっており(溝4・5)、基壇の外装(地覆石(じふくいし))を抜き取るときに掘られたものです。このほか、築地回廊の北側で検出された瓦だまりは、屋根の解体作業に際して、回廊に葺かれていた瓦を周辺に捨てたものでしょう。出土した瓦の年代観は、この推測を裏づけています。

3.出土遺物

瓦:
礫敷をおおう瓦だまりなどから多数出土しています。その多くは、南面築地回廊に葺かれていた瓦と推測されます。
土器:
土師器・須恵器・瓦器・陶磁器が少量出土しています。

4.まとめ

今回の調査成果は、次の通りです。第一次大極殿院南面築地回廊の礎石の痕跡は、推定どおりの位置で見つかりました。また、基壇の南北縁では雨落溝などをその推定位置で検出しました。築地回廊の基壇は、掘込地業と版築とで築成されていることがすでに知られていましたが、今回もこのことを確認しました。大極殿院内庭部では、創建以後に礫を二度敷き直していることを再確認しました。以上、今回の調査により、南面築地回廊の調査が完了しました。

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