石神遺跡発掘調査一石神遺跡第20次調査(飛島藤原150次)現地説明会資料一
2007年12月15日(土)
奈良文化財研究所都城発掘調査部(飛鳥藤原地区)
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥 |
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調査主体 | 奈良文化財研究所都城発掘調査部 |
調査面積 | 約400m2 |
調査期間 | 2007年10月1日−12月(継続中) |
石神遺跡は漏刻の置かれた水落遺跡の北側、飛鳥寺の北西に隣接する遺跡で明治3536年に須弥山石石人像が発見された所として知られます。これまでの調査で7世紀代を中心に建物や広場園地井戸石組溝などが配置され何度も作り替えがおこなわれていたことが明らかになっています。この遺跡の最盛期は斉明朝(7世紀中頃)にあたり『日本書紀』に見える蝦夷や隼人なとの辺境の民や外国使節に対する饗宴施設であったと考えられています。この時期には建物群を東西2つのまとまりに区画しておりそれぞれの区画には中国の四合院のような建物配置が見られます。また天武朝においても大規模な建物群の存在から官衙的な施設が推定されています。
奈良文化財研究所では1981年以降継続的に石神遺跡の発掘調査をおこなっており今回で第20次の調査になります。これまでの調査は第1次3次調査で石神遺跡南限施設と推定される掘立柱塀を発見して以降北へと調査を続けながら第13次14次調査で北限施設(掘立柱塀石組溝)を見つけました。その後はさらに北に調査を進め北限施設以北には建物の存在が稀薄であることと山田道を確認したことで石神遺跡中心部の北限が明らかになりました。そこで今回の調査は石神遺跡の範囲確認調査の一環として遺跡の東限を探ることを目的に実施しました。また中心部東側の様相を明らかにするための手かかりを得ることを目的としています。
今回の調査区に西側で隣接する水田は20002001年に発掘調査をしました。そこで検出された石神遺跡中心部北限施設のうち今回の調査区に続くと想定される遺構は中心部の北限を示す掘立柱塀の柱穴列1条時期を違えた石組溝3条でした。
今回の調査で検出した主な遺構には、石組溝2条、掘立柱塀3条、掘立柱建物1棟、石組暗渠3条があり、以下の5時期の変遷を辿ります。
石組暗渠1〜3があります。地形が南東から北西に向かって低くなりますので、これら石組暗渠は地形に沿って方向を設定したものといえます。いずれも小さな側石に大きな墓石をのせた石神遺跡に特徴的なものです。
須弥山石・石人像とともに、石神遺跡の骨格となる南北石組溝1が造られ、建物群が整備され始めます。
それまでの北限施設が廃され、それより北に掘立柱塀1が新たな北限として設置されます。また、東西石組溝が新たな北限の溝として機能し、南北石組溝に接続します。石神遺跡中心部の東限は南北石組溝1の東側に想定されます。
北限の掘立柱塀1が廃され、掘立柱建物が建設されます。同時に南北方向の掘立柱塀2が設置されます。このときには南北石組溝と東西石組溝は埋め立てられています。
掘立柱塀3が設置されます。
土師器・須恵器・瓦器などが出土しましたが、全体的な遺物量は多くはありません。時期は7世紀代が中心です。南北石組溝からは7世紀中頃(飛鳥I〜飛鳥II)の土器が出土しており、溝が埋没した時期がわかります。東西石組溝からは須恵器・土師器や漆の付着した土器が出土しています。
今回の調査成果は次のようにまとめることができます。
掘立柱塀1が、基幹水路である南北石組溝1を東に越えたところで、南北塀につながることが分かりました。このことから、石神遺跡中心部(東区画)の東限を推定できるようになりました。
須弥山石・石人像に隣接していたと考えられる基幹水路(南北石組溝)が、総延長200mを超え、さらに石神遺跡中心部の北限を超えてなおも北へ延びることが分かりました。これによって、石神遺跡にとどまらず、飛鳥寺北方の土地利用の実態解明へ、手がかりに成りうる遺構であることが分かりました。
また、この石組溝は遺存状態が比較的良く、敷き詰められた底石や一直線に面が揃えられた側石に、丹念な仕事ぶりや、いかに一大工事であったかがうかがえます。
さらに、東西石組溝において、南北石組溝との接合部付近の底には、木樋を据えるという構造が見られました。これも、丁寧な仕事・技術 ̄と評価できます。
以上のことから、水落遺跡を含めて、精巧な技術を見せる石神遺跡の特色をあらためて認識できます。
II期(斉明朝および以前)
III期(斉明朝)
IV期
V期