平成19年(2007年)9月8日(土)
独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部
※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。
奈良文化財研究所都城発掘調査部では、今年4月から藤原宮大極殿院の南門を発掘調査しています。南門は1940年に日本古文化研究所によって部分的な調査が行われています。その調査では東西方向に列をなす石材を11個確認し、それを基壇の北辺と考えて、基壇の規模を長さ100尺程、幅50尺程と推定しました。しかし、礎石(そせき)などは確認されず、南門の具体的な構造も不明のままでした。
当調査部では、1999年より藤原宮中枢部の詳細な構造を解明していく調査を継続してきました。今回の調査は、南門基壇の正確な規模やその築成方法、南門自体の規模や構造、大極殿院回廊との関係、儀式用施設の有無などを明らかにすることを目的として実施しました。
調査の結果、南門に関する新たな知見を得ることができました。まず、古文化研究所が確認していた11個の切石(きりいし)を再確認しました。石のないところには後世に石を抜き取った痕跡があり、それを丁寧にたどっていきました。その結果、基壇の規模は東西39.1m×南北14mとなることが判明し、古文化研究所の推定よりも大きくなることが明らかとなりました。これまで確認されている宮殿遺跡の大極殿院南門基壇の中では最大級です。
基壇の中央部は北・南面ともに1.2m程外側に張り出しており、階段と考えることができます。また、古文化研究所が確認していた石は、これまで基壇外装の一部と考えられてきましたが、実は北面階段の一段目として用いられたものと考えられます。石材は竜山石(たつやまいし)(兵庫県加古川下流右岸に産する石材)で、深さ50cm程の据付掘形(すえつけほりかた)を溝状に掘って据え付けています。階段の東西幅は24.7mと非常に広いものです。
基壇は後世の削平が著しく、礎石の据付穴などは確認できませんでした。ただ、基壇規模や階段の東西幅などから考えると、基壇の上に桁行7間(約35m)、梁行2間(約10m)という大規模な東西棟建物が建てられており、そのうちの桁行の中央5間分に扉が設けられて、階段に続いていた可能性が考えられます。
さらに注目されるのは、基壇を築く前にその範囲を一回り広く、深く掘り込み、地固めを行っている点です。地業を行う際には土を一層ずつ敷いて拍(つ)き固めています(版築工法)。藤原宮において大規模な掘込地業をもつ建物は大極殿に続いて2例日で、地業の深さは1m程と深く、敷いた土を抱き棒(先端が径6〜8cmの円形)で抱き固めた痕跡も確認することができました。
南門廃絶後に、比較的大型の柱穴の建物群と小さな柱穴の建物群が二時期にわたって営まれていたことが明らかとなりました。
まず、一辺0.6〜1m程の比較的大型の柱穴を有する建物群(建物1〜4)が営まれる段階です。南北に妻をそろえて並ぶ2棟の建物(建物1・2)とその東西の2棟の建物(建物3・4)は、整然とした建物配置をとっています。建物2は基壇の高まりを意識して建てられたようで、その時期は奈良時代までさかのぼる可能性もあります。また、小さな柱穴の建物群(建物5〜8)は、周辺の調査成果から平安時代後半〜鎌倉時代の可能性が高い建物群と考えられます。
出土遺物の大半は、南門もしくは南面回廊に葺(ふ)いた瓦や藤原宮期の土器です。奈良時代や平安時代、中世の土器も出土しています。軒瓦は現時点で41点(軒丸瓦23点、軒平18点)を確認しています。ただ、調査面積に対して遣物の出土量は多くありません。
今回の調査の最大の成果は、南門基壇が大規模であったことと、南門の築成方法を以下のように明らかに出来たことです。
『続日本紀』大宝元年(701年)正月条には、文武天皇が大極殿に出御して元日朝賀の儀式を行なったとあります。その際、正門(南門)に様々な瞳幡(どうばん)(旗)を立てていました。大極殿院は天皇の儀式空間であり、特に南門は天皇みずから出御して朝堂院に参集した宮人と対面する儀式の場でもありました。上でみた掘込地業の状況や基壇の規模からも南門が巨大な建物であったことは明らかで、儀式の場としてふさわしい威容を誇っていたと考えられます。
今後、瞳幡を立てた痕跡の有無など、残された課題の解明に向けて慎重に調査を行っていく予定です。