特別史跡百済寺跡 現地説明会

平成19年(2007年)3月10日(土)
主催 枚方市教育委員会

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料(枚方市教育委員会)からの転載です。

特別史跡百済寺跡再整備事業に係る発掘調査 一平成18年度調査の成果ー

調査地枚方市中宮西之町百済寺跡公園
調査期間平成19年1月9日〜19年3月末(予定)
調査面積300m2
調査主体枚方市教育委員会・(財)枚方市文化財研究調査会

調査の経緯

百済寺跡に対する学術的な取り組みは昭和7年に大阪史談曾によって主要堂塔の基壇周囲と回廊礎石の探索調査が実施されたことに始まります。これによって東西両塔を備えた薬師寺式伽藍配置と規模の大略が把握されました。

この成果を受け、大阪府は昭和8年(1933)12月15日、史蹟名勝天然記念物保存法により百済寺跡を史蹟に仮指定し、昭和16年(1941)1月27日には文部省によって史蹟に指定され保存の措置が講ぜられました。昭和25年(1950)公布の新法、文化財保護法においても史跡指定は引き継がれ、昭和27年(1952)3月29日に百済王氏一族の氏寺で奈良時代創建当時の主要堂塔を良好に遺存する希有の遺跡として、また伽藍は、百済王氏の歴史的背景と相俟って、古代日朝文化交流の史実を徴証する価値の高い史跡であることから特別史跡に昇格されます。

ところがその後、当地が潅木の繁茂に任せ分け入ることもままならない状況と化し、これを憂いた寺島宗一郎市長(当時)は大阪府教育委員会に諮ります。そこで大阪府では文化財保護委員会(現文化庁)記念物課と協議を重ね、昭和40年(1965)に公園計画策定の資料を得るための発掘調査を同年5月から奈良国立文化財研究所(当時)の援助のもと実施するに至りました。昭和7年の調査から実に33年ぶりに本格的な発掘調査が実現したのです。この調査では回廊が中門から東西両塔を囲み金堂に取り付くことが確認され、朝鮮半島、統一新羅時代の感恩寺に類似した渡来氏族の氏寺に相応し伽藍配置であることが明らかになりました。

こうして発掘調査とその成果を基に昭和40年(1965)〜42年の3カ年で2万有余m2にたいして主要伽藍の基壇の地上復元と周囲の緑陰形成を中心とする環境整備事業が実施されましたが、これは基壇部の花崗岩切石による縁石標示、基壇周縁部の回線植栽、基壇床面のアンツーカー舗装等を手法とする史跡環境整備事業としてわが国で最初のものです。

現在、公園の緑は順調に生育して落ち着きを醸し出し、新枚方八景の一つ「百済寺の松風」に指定され、また春には市内でも指折りの桜の名所として花見客で賑わいを見せる一方、普段は近隣住民の朝夕の散歩や歓談等の憩いの場として定着しています。

このように早くに史跡公園として整備され、長きにわたり史跡整備の先駆的事例として重要な役割を果たしてきましたが、整備後40年という経年によって、今や至る所で損壊や変形が弥が上にも目に入る状況で、その抜本的見直しを求める意見が大方をしめるに至り、文化庁・大阪府教育委員会の指導のもと特別史跡百済寺跡再整備委員協議会を発足させ全面的な再整備事業に着手することとなりました。

史跡再整備にあたっては、この間に大きく進展した整備の手法の蓄積をふまえ、訪れる人へのわかりやすさに配慮し、現代の史跡に求められる整備のあり方等を充分に検討しながら、計画を具体化してゆこうと考えています。そしてここ百済寺跡を日韓文化交流史のシンボルと位置づけ、日韓友好の広場として活用してゆきたいとも考えております。

昨17年度から再整備基本計画策定に向けての再発掘調査を実施しておりますが、先の整備を仮に「昭和の整備」と呼ぶならば「平成の再整備」とも呼ぶべき一大事業であり、具休的な再整備工事に至るまでには長い年月を要するものと思われます。今後、公園を利用される皆さんには何かとご不便をおかけすることになろうかと思われますが、再整備事業の趣旨をご理解いただき、今しばらくご辛抱とご協力をお願いするものです。

さて昨年は初年度であり、西塔・西面回廊について調査を実施し、現地説明会でみなさんにご報告したとおりです。今年は2年度目にあたり、金堂・東面回廊・中門・南門と昨年度に確認された西塔北側の百済寺建立以前の下層遺構を調査の対象とした発掘調査を実施しております。

今回の調査は昭和40年の調査範囲内の再発掘が大部分であり、現段階では新たな知見はあまりありません。しかしながら先の整備に先立つ発掘調査から既に42年を経ており、調査当時に現場を見学されていない方が殆どではないかと思います。そこで史跡公園として整備された現地表と地下に保存されている遺構本体との関係を理解する上で絶好の機会であることから是非ともみなさんに見ていただきたいと考え、現地説明会を開催することにしました。

H18年度調査部分と伽藍配置概略図
H18年度調査部分と伽藍配置概略図

調査の概要

A 金堂

金堂については全て現地表下に保存されており見学は叶いませんが、昭和40年の調査(以下、昭40調査)によって東西長28.8m、南北長18.6mの基壇上に5個の礎石と他に根石が発見され、柱間3mで桁行7間、梁間4間の規模であることが明らかにされています。そして礎石に柱座の加工のない自然石が用いられていて他の堂塔と異なる点に始まり、金堂礎石下に基壇外装と同じ土専が充填されており、金堂の礎石は後に据えられたものとみられる点。基壇上面は現(昭40調査確認)礎石が据えられた際に補修されている点。基壇周りの土専には露出していない基壇内部側が焼け爛れたものがあり、転用材である点等から金堂は創建当初というより、むしろ再建されたと考えた方が良いようです。さらに基壇上では現(昭40確認)礎石位置に相当しないところで、根石状に礫石が一部発見されており、創建当初の平面は異なっていた可能性もあるといいます。また基壇中央には桁行3間、梁間2間分に相当する規模の須弥壇があり、この周縁に土専が並べられていましたが、須弥壇前面では2列検出されており、須弥壇にも改修拡張の跡が認められています。なお現(昭40調査)基壇の外装は、基壇周辺の多量の瓦片の堆積から、現(昭40調査確認)基壇は土専の上に瓦を積んで造られていたと考えられています。

今回の調査では金堂東南部分から北面回廊東半にかけての部分について再発掘しました。そして残存する基壇築成土と南辺外装の基底部を形成する土専列、そして金堂基壇東辺中央にとりつく北面回廊基壇南辺が昭40調査当時のままの状態で検出されました。ここでは瓦積基壇の最下段を留めた状況が見て取れました。そして回廊上面では南柱筋東端から第9柱礎石が検出されましたが、この礎石は柱座径約55cmのものでした。

なお、基壇外側の当時の地盤面には瓦や土器類が包含された20〜30cmの厚さの整地層からなり、さらにここでも下層遺構が検出されています。

B 東面回廊

回廊については、昭40調査によって中門から左右に延びて東西両塔を包み込んで金堂中央にとりつく単廊形式で、柱間寸法は桁行が不揃いながら約3.45m前後、梁間は3.3mで、礎石には径50cm前後と径40cm前後の大小二種類の柱座があり、径45cmほどの柱が建てられていたことが知られています。そして東面回廊と西面回廊の柱間が南北端からそれぞれ15間、南面回廊と北面回廊の柱間が東西端からそれぞれ9間半に割り付けて復原されています。

なお、回廊基壇外装については、先述のように北面回廊南辺では瓦積基壇が発見されていますが、南面回廊では礎石抜き取り跡に凝灰岩が混入するものがあり、また回廊基壇外側で凝灰岩片が散乱している場所も一部認められていることから、当初は凝灰岩切石による基壇外装であったと推定されています。

今回の調査では東面回廊の西柱筋で南端から第6柱礎石・第7柱礎石・東8柱礎石の3基の礎石を含めた部分の回廊の西半を再発掘しました。3基とも50cm内外の柱座をもっています。

昭40調査時の土層観察用畦の南に接して検出された回廊廃絶後に掘削された土坑内から瓦類と共に青銅片(風鐸?)が出土しています。

回廊基壇部は20〜30珊の集成土から成り、周囲よりも20程高い基壇を有し、西面回廊との違いが見られます。基壇集成土下において下層遺構を確認することができました。

C 中門

中門は南門と真々距離17.6mを隔てた伽藍中軸線上に位置します。昭40調査によって礎石3個と根石が2ヵ所で発見されています。基壇南辺はすでに削平されていましたが、北辺は土壇として残っていました。遺存礎石から平面を復原すると、3間1戸の門を復原することができますが、規模はやや小さく、桁行は中央間4.65m、両脇の間2.7m、梁間は2.7m柱間が2間分で、軒の出は1.65m程となります。礎石の柱座径は55cm内外を測ります。

D 南門

遺跡の南端、道路に接して南門跡があります。南門の南半部の基埋はすでに削平されており、遺存する中門と同様に昭40調査によって3個の礎石や礎石下根石から3間1戸の門であることが知られています。桁行は中央間4.2m、両脇間3.0m、梁行は3mで2間分あり、検出した北半の基壇から軒の出は1.5mほどになると考えられています。

E 西塔北側

昨年確認された下層の掘立柱建物跡の規模・建築年代等を把握するために昨年度の調査区を拡張したところ、少なくとも3時期の遺構の重なりのあることがわかりました。これらは塔基壇外の整地層下において検出されていることから8世紀中葉以前に遡るものと考えられます。現在調査途上にあり、詳細は今後の調査を俟たねばなりませんが、現時点では2棟の建物が把握できそうです。

一つは掘立社建物跡SB01で、百済寺跡の伽藍中軸線に直交する東西棟で、桁行5間(約9m)、梁間2間(3.9m)の規模で、柱掘形は隅丸略方形、不整円形を呈しています。今ひとつは掘立柱建物SB01と軸方向の一致する掘立柱建物SB02で北西隅角から東と南に延びる柱筋が想定できます。南は西塔基壇下に及んでいました。柱間は東西約3.9m、南北2.7mと、一致しません。また柱掘形が一辺1.2mと巨大な隅丸方形である点が注目されます。

これらはSB01−SB02の順で建造されたと考えられますが、詳細は現在のところ不明と言わざるを得ません。いずれにしても巨大な正殿的な建物の存在したことは間違いありません。

西塔北側で検出された掘立柱建物

出土遺物

今回の調査ではこれまでに遺物収納箱(54×34×14cm)にして約200箱の遺物が出土しています。うち大半が屋瓦であり、その他に古墳時代後期から平安時代にかけての須恵器、土師器片の破片、中世の瓦器椀・釜・青磁碗・土師皿等があります。さらに少量ですが鉄釘・青銅板などの金属製品も認められます。

なお、東面回廊の土坑SK01から出土した青銅製品については小破片であり断定することはできませんが、風鐸の身の一部の可能性があるのではないでしょうか。厚さが9mmと、厚いことから大型品を想定できないでしょうか。

参考文献

大阪府1934『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書第四輯百済寺祉の調査』
大阪府教育委員会1965『河内百済寺跡発掘調査概報』
枚方市教育委員会2006『特別史跡百済寺跡一平成17年度確認調査概要』

※お断り:本稿の記載、特に数値等については、現在調査途上にあり、今後訂正することがあります。

<参考>

百済王(くだらのこにきし)氏:
660年に朝鮮半島の百済は新羅・唐連合軍によって滅ぼされました。当時百済と友好的な関係にあった倭国には、百済国王である義慈王の王子、豊津王・善光王が派遣されていました。そこで陥落した都のひ泗比(サビ一現在の忠清南道扶餘郡扶餘邑)から遺臣が倭国に滞留していた王子を担いで再興を企てました。兄の豊津王はこれに応じて帰国し、倭国も救援軍を差し向けましたが、663年に白村江で潰滅し、再興の夢は潰えたのでした。
一方、倭国に留まっていた弟の善光王は祖国を失うも、百済王族として待遇され百済王(くだらのこにきし)の称号と難波に土地を賜り永住を保証されました。これが百済王氏誕生の経緯です。以後、百済王氏は高級宮人として渡来氏族を束ねて朝廷に仕えることになりますが、この頃に難波に入植し、滅亡した百済からの亡命王族や亡命宮人と共に難波京の中に故国の制度・習慣に倣って「リトル泗比」ともいうべきコリアン社会を形成し、その精神的紐帯として百済寺・百済尼寺(摂津)を造営したものと考えられます。そして他の百済系氏族から宗家と仰がれ、平安時代に至るまで名実共に渡来系氏族筆頭の地位を保ちつづけたのです。
百済王氏の交野進出と百済寺造営は、百済王善光の曾孫、敬福によるといわれています。敬福は天平10年(738)に陸奥介に補任され、同15年に陸奥守に昇進します。天平18年4月にいったん上総守に任ぜられ、再び同年9月には陸奥守に着任しています。そして天平21年(749)に任地で砂金を発見し、黄金900両を聖武天皇に献上し、時恰も東大寺廬舎那仏造立の最中にあり、荘厳用の黄金の不足による事業停頓に難渋していたことから朝野を挙げて慶祝されました。敬福は、この功により一躍、宮内卿に昇進(天平勝寳2年(750))し、河内守就任を契機に難波の地から当地交野郡へ本拠を移し、氏寺として百済寺を造営して一族繁栄をより強固なものとしたのです。
百済寺の造営された当地、交野ヶ原は平安時代初期には天皇や皇族が放鷹遊猟を楽しんだところとして知られていますが、天皇行幸の折々に百済王氏は百済寺を舞台に百済楽等の歌舞音曲で饗応し、これに答えて桓武天皇は生母、高野新笠が百済の武寧王の後裔であることから「朕が外戚」として百済王氏を特に優遇したといいます。このように百済王氏は、天皇家と積極的に外戚関係を結び、一族からは陸奥・出羽の国司や鎮守府の高官に補任されるなど、高位高官に昇る者を数多く輩出したことはよく知られています。

事考文献


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