開催日 | 平成18年10月7日(土) |
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調査主体 | 滋賀県教育委員会文化財保護課 |
調査機関 | 財団法人滋賀県文化財保護協会 |
関津遺跡の発掘調査は、滋賀県農政水産部が行う県営経営体育成基盤整備事業(ほ場整備事業)に伴い平成15年4月から実施しています。これまでに、県内最古級と考えられる墨書士器、奈良時代の「田上山作所」関連施設、平安時代後期から鎌倉時代の集落跡、中世から近世にかけての「関津浜」に関連する港湾施設の一部などがみつかっており、現地説明会を5回実施してきました。
今回の調査は、関津遺跡のほぼ中央に位置する場所で実施しました。調査の結果、『続日本紀』に記載されている「田原道』の可能性が高い道路跡と道路沿いに立ち並ぶ建物群などがみつかりました。
図1 関津遺跡および関連遺跡位置図
南北方向にのびる道路の側溝を2条検出しました。側溝は、東西ともに幅1〜3m、深さ0.1〜0.3mの規模で、南北約250m(今回検出部分約70m)にわたって、同じ間隔で直線に延びています。東西の側溝の心々距離(幅員)は釣18m、推定路面幅は約15mあります。路面は道路とほぼ重複する9世紀後半以降の遺構や後の削平によりその構造については不明です。
この道路は両側に立ち並ぶ建物群との関係や出土遺物から、8世紀中葉から9世紀中葉にかけて機能しています。廃絶時期は、道路を破壊して流れる流路などから9世紀後半代と考えられます。
図2 奈良時代から平安時代前期の道路跡と建物群
建物跡は、これまでの調査で道路跡の両側で約60棟を確認しています(今年度の調査箇所からは約30棟)。どの建物も地面に穴を掘って直接柱を立てた掘立柱建物で、南北に延びる道路の東西両側にどれも道路の方向を意識して道路に沿って配置されています。建て替えるたびに規模、構造、配置は変えられています。また、井戸も8基(今年度の調査箇所からは6基)検出しています。
遺物は、建物周辺、井戸、道路側溝などから、土師器や須恵器を中心に、墨書土器、硯、土馬、緑軸陶器、銅製帯金具、製塩土器、瓦、砥石、櫛、木沓など、8世紀中葉から9世紀中葉のものが出土しています。これらの遺物の多くは一般集落ではあまり出土しないものであることから、この建物群は官衙や「田上山作所」などの公的施設の一部と考えられます。なお、地形などの様子から、官衙の中心施設は今回調査箇所の南側に想定できます。
道路跡と掘立柱建物群(南から瀬田丘陵を望む)
道路跡は、敷設位置と存続時期から『続日本紀』に記述のある藤原仲麻呂の乱において追討軍が進軍した「田原道」と考えられます。さらに、道路跡を別の視点から考えると「東山道」の可能性もあります。
以上の点から、この道路跡の性格について次のように考えられます。
足利健亮『日本古代地理研究』(1985)に一部加筆
今回、道路跡や建物跡がみつかった場所は、「田原道」のルート上に位置するだけでなく、当該地の瀬田川は琵琶湖とつながり、これより下流は急流になります。このことから、琵琶湖水運と瀬田川水運の分岐点にあたり、さらに、瀬田川と大戸川の水路と関津峠を介した陸路を擁する水陸交通の結節点に位置します。周辺には瀬田丘陵製鉄遺跡群や南郷製鉄遺跡群等の古代の生産遺跡群があり、さらには田上山作所に見られる田上山の山林資源にも恵まれた場所であるなど、関津は近江の生産・交通・流通のターミナル的な位置にあたります。
関津遺跡で今回みつかった道路跡は、平城京から山背国との国境を経て、近江国に入った最初の平野部にあります。その直線上には近江国庁や保良宮の中枢部があり、格式の高い道路をそこに求めたと考えることができます。これらのことから、都と近江を結ぶ「田原道」であるとともに、東山道でもある可能性があり、歴史的事件をみてきた道路と考えられます。また、道路沿いの建物群は、山林資源の管理や流通に関する公的施設の一部である可能性が高いことも明らかとなりました。
奈良時代の関津遺跡のイメージ(イラスト、(財)滋賀県文化財保護協会作成)
今回の成果は、律令国家の近江国支配の一端を垣間見ることができる重要な意義をもつだけでなく、日本の古代史の理解に一石を投じるものと考えられます。