藤原宮朝堂院東第四堂(飛鳥藤原第142・144次)調査 現地説明会

配布資料

平成18年9月30日(土)
独立行政法人奈良文化財研究所
都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)

調査位置図

調査の経緯

藤原宮は持続8年(694)から和同3年(710)までの16年間、持続じとう)・文武もんむ)・元明げんめい)3代の天皇にわたって営まれた宮殿です。藤原宮の中心部には、天皇の空間である大極殿院、臣下の空間である朝堂院が位置していました。これらの空間には瓦茸の巨大な建物がそびえ立ち、国家的な政務や儀式・饗宴きょうえん)の場として使用されました。大極殿院や朝堂院は、戦前に日本古文化研究所(以下、古文化研)によって発掘調査され、規模や配置状況が明らかにされています。しかし、柱の想定位置をねらった部分調査であったため、建物構造の細部など不明な点が少なくありません。そこで、奈良文化財研究所では、1999年以降、中枢部の面的な再調査をおこなっており、今回はその9回目の調査となります。

東第四堂

調査地は、朝堂院地区の東側に位置します。藤原宮の朝堂院は南北約320m、東西約235mに及び、古代に営まれた宮殿では最大規模を誇りました。内部には12棟の朝堂が東西対称に並びます。そのうち、北から4番目の建物で、朝堂院の東南隅に位置するのが東第四堂です。平安宮の東第四堂は「明礼堂みょうらいどう)」と呼ばれ、治部じぶ)省・雅楽ががく)寮・玄蕃げんば)寮・諸陵しょりょう)寮に属する役人の座が設けられていました。

平安宮朝堂院概念図(岸俊男「日本の古代宮都」より

建物規模

古文化研の調査によって、東第四堂の建物規模は南北15間(1間14尺で約62m)、東西4間(1間10尺で約12m)の総柱そうばしら)建物に復原されていました。瓦茸かわらぶき)の礎石建物で、屋根は切妻造です。今回、現水路や農道部を除く建物全体と朝堂院東面回廊の一部に調査区を設定しました。その結果、東西の建物規模が古文化研の想定とは異なり、5間(約14.4m)となることが判明しました。礎石は全て抜き取られ現存しませんが、それを据えるための根石が残っています。通常柱の立たない棟通むなどお)りの柱筋にも礎石据付そせきすえつけ)痕跡があり、床を支える柱の跡と考えられます。

埋もれた柱筋

東端の柱筋は、古文化研が想定した東側柱のさらに外側で検出しました。建物の北半分では残りが良く、根石が密に詰め込まれたものもあります。しかし、この柱筋は、現在確認できる基壇の外側に位置することから、建物の廃絶時には使用されていなかったようです。同様の状況は東第三堂の調査でも確認されており、建物の設計変更、もしくは規模を縮小した建て替えと想定されます。

古墳時代の遺構

東第四堂の下層で、幅約1.5m、深さ約0.4mの円弧状にめぐる溝を検出しました。周辺から埴輪や碧玉へきぎょく)製の管玉くだたま)が出土していることから、この溝は古墳の周溝とみられ、古墳を削平して藤原宮を造営したことがわかりました。

出土遺物

基壇の外周部から、東第四堂に葺いた瓦が大量に出土しました。これらは建物の造営や解体時に生じた不要瓦と考えられます。このほか、古墳時代の土器や平安時代の緑釉りょくゆう陶器、墨書ぼくしょ土器(「大吉」)も出土しています。

遺構図