蔀屋北(しとみやきた)遺跡現地説明会

四條畷市砂・蔀屋所在
蔀屋北(しとみやきた)遺跡現地説明会資料

大阪府教育委員会文化財保護課
2006.8.12(土)

はじめに

大阪府教育委員会では、寝屋川流域下水道なわて水みらいセンター建設に伴い、平成13年度から蔀屋北遺跡の発掘調査を実施してきました。これまでにA・B・C調査区(水処理施設予定地・約17200m2)、D調査区(ポンプ棟・沈砂池棟予定地・約2000m2)、E調査区(急速ろ過池予定地・約3000m2)の調査を終えています(図1・2)。その結果、特に古墳時代中期〜後期にかけて(5〜6世紀・約1600〜1400年前頃)は、日本書紀などに書かれている「河内の馬飼(うまかい)」に深く関わりのある集落遺跡であることが判明してきました。例えば馬の全身骨格が検出された馬の埋納土壙(A調査区)や、輪鐙(わあぶみ)(試掘H地区)、ひょう轡(くつわ)(E調査区)という馬具の出土をはじめ、各調査区で多数発見される馬骨や馬歯はそれを物語る資料といえます。また各調査区から出土している朝鮮半島とのつながりを強く示す土器(韓式系土器、陶質土器など)やU字形板状土製品(カマドの焚口の縁を保護する土製品)は朝鮮半島の中でも特に百済(くだら)地域との強い結びつきが想定されています。他にも準構造船の部材の出土などもあり、多大な成果が得られています。

今回は、合計約25000m2にもおよぶ大規模な発掘調査の最終調査区にあたるF調査区について、古墳時代中期〜後期の遺構と出土遺物の現地公開を実施します。

図1 蔀屋北遺跡の位置
図1 蔀屋北遺跡の位置

図2 各調査区の位置
図2 各調査区の位置

1.蔀屋北遺跡と周辺の環境

蔀屋北遺跡は、四條畷市砂(すな)・蔀屋(しとみや)に所在する遺跡で、弥生時代から近世に至る複合遺跡です。本遺跡は生駒山地から西流する岡部川や讃良(さら)川によって形成された複合扇状地上に立地しています(図3)。古環境の復元的な研究(遺跡の土壌の科学的分析)によると、古墳時代の蔀屋北遺跡は、岡部川や讃良川の氾濫によって形成された幾つかの土砂の高まり(自然堤防)の上に集落が営まれており、その高まりの間は浅い谷や大きな溝が形成されていることが分かっています。当時の河内平野は「河内湖」と呼ばれる湖であったと考えられており、蔀屋北遺跡の西付近には湖岸線があったようです。ちょうど河内湖を東の奥に進んだ時の、一番奥まったところに位置していることになります。

遺跡の土壌に含まれる花粉の分析によると、当時の本遺跡周辺にはカシ類(アカガシ亜属)を中心とする照葉樹を主休とし、コナラ、ケヤキ、ムクノキなどの落葉広葉樹が混じる中で、モミ、ツガ、コウヤマキ、スギ(これらを温帯性針葉樹という)もみられる森林が存在したようです。そして古墳時代中期〜後期にかけて集落の規模が大きくなるにつれ、これらの樹種は徐々に減少し、アカマツなどが増えてくることが分かっています。当時本遺跡からは、東にこれらの樹木で覆われた生駒山地を望み、西には岡部川や讃良川が流れ込む河内湖を望むことができるような景観であったことが復元できます。

図3 蔀屋北遺跡周辺の古地図
図3 蔀屋北遺跡周辺の古地図

また付近には古墳時代中期〜後期にかけての馬に関わる遺物を出土した遺跡が多数存在し、この一帯が「河内の馬飼」に関連する地域であることが理解されます(図4)。

図4 蔀屋北遺跡周辺の遺跡
図4 蔀屋北遺跡周辺の遺跡

2.古墳時代中期〜後期(5世紀〜6世紀)の遺構と遺物

今回皆さんにご覧いただくのは、蔀屋北遺跡の古墳時代中期〜後期の様子です。

F調査区の中央部から南東部にかけては、弥生時代後期〜古墳時代前期に形成された自然堤防と呼ばれる高まりがあり、この上に竪穴住居跡、掘立柱建物跡、井戸、土坑などで構成される集落が発見されました。この高まりの西側と北側はそれぞれ谷状の地形になっており、遺構はほとんど見つかっていませんが、どちらの谷からも集落から廃棄された遺物が多量に見つかっています。

古墳時代中期 (5世紀)

図5 F調査区5世紀の主な遺構
図5 F調査区5世紀の主な遺構

古墳時代中期の遺構としては、現時点で竪穴住居跡6棟、掘立柱建物8棟、井戸8基などを検出しています。竪穴住居跡は平面形が一辺4m前後を測る角の丸い正方形をしており、竪穴住居跡8を除いて、東壁のやや南よりにカマドが設けてあります。このうち竪穴住居跡12のカマドは、両側の壁から煙道までよく残っており、煮炊きに使われた土師器の甕とそれを乗せた支脚として、小型の土師器甕を伏せて利用している様子が見られます。この竪穴住居跡12からは砥石や製塩土器が見つかっています。製塩土器は竪穴住居10のカマドの左脇からも出土しています。

また土坑1120からは「鳥足紋(ちょうそくもん)タタキ目」とよばれる鳥の足跡に似たタタキ目をほどこした陶質土器が出土しています。この紋様をもつ土器は朝鮮半島西部の百済地域に分布しており、蔀屋北遺跡と百済地域との結びつきがうかがえる資料です。

集落域の北側には浅い谷状の地形(谷2)がみられ、大型の土坑や井戸がある他は、この時期の遺構は顕著ではありませんでした。この浅い谷によって北隣のD調査区の集落と区画されていました。一方集落の西側は、西に落ちる谷状の地形(谷1)となっていますが、谷の最下部は人工的に溝状に掘り込まれていました。この掘り込みは南東一北西方向へ直線的にのびており、南隣のE調査区で発見された「大津」と呼ばれる遺構と同一のもので、蔀屋北遺跡の古墳時代中期集落の西端を限るものです。

大津からは多量の遺物が出土しています。土器・土製品では須恵器や土師器をはじめ、陶質土器(朝鮮半島製の須恵質の土器)、韓式系土器(渡来人やその子孫が製作した土器で製作技法や器形など渡来的な要素が強い土器)、製塩土器、U字形板状土製品(カマドの焚口の保護に用いる土製品)、などがみられます。また木製品では鍬、弓、容器など多種多様で、木製品を作る際に出る削り屑のような薄い木片も多量に見つかっています。中でも乗馬の際に使用した木製の鞍は残りが非常に良好で、5世紀中頃の堆積層から出土しました。この鞍については後段で改めて解説します。鉄製品には、袋状鉄斧や刀子、鑿(のみ)があり、この集落内で何らかの木材加工を行っていたようです。石製品では、滑石製の臼玉や管玉、碧玉製の管玉、ヒスイ製の勾玉などがあります。そのほかにも馬骨などの動物遺存体、ヒョウタンや桃核などの植物遺存体も多く出土しています。

古墳時代後期(6世紀)

図6 F調査区6世紀の主な遺構
図6 F調査区6世紀の主な遺構

古墳時代後期の遺構は、6世紀の中頃〜後半が中心となりますが、竪穴住居跡を10棟、掘立柱建物跡を4棟、井戸1基などを検出しています。この時期は竪穴住居が同じ場所で幾度か建替えを行っている様子がみられます。例えば調査区中央東よりでは、竪穴住居跡が4棟重なって検出されています。古い順に竪穴住居跡4→5→8→2と建替えられています。それに従ってカマドの位置も西壁に設ける場合と北壁に設ける場合とを繰り返しています。また5世紀の竪穴住居跡に比べると6世紀の竪穴住居跡は、平面形が一辺6m程度の角の丸い正方形となり、規模が大きくなっています。中でも竪穴住居跡13は一辺が7mを測り、検出された竪穴住居跡の中では最も広い住居跡です。カマドの規模もこの集落内では最も大きなものになります。一方掘立桂建物跡の中では掘立柱建物跡7が梁間3間・桁行3間、また掘立柱建物跡4が梁間2間・桁行2間の総柱(そうばしら)の建物となり、倉庫であったかもしれません。

集落域の北側は6世紀と同様に谷状の地形(谷2でしたが、6世紀には谷2を切るように北東一南西方向に流れる自然河川529が溢れさせる土砂を利用して、小規模な水田耕作を行っていたことが分かりました。蔀屋北遺跡において古墳時代後期の水田畦畔が検出されたのは初めてになります。この自然河川529は6世紀代に何度も土砂を溢れさせており、谷2はこれによって埋められてしまいます。一方集落の西側の谷(谷1)は5世紀に大溝が埋まった後、6世紀には最終的に集落域との高度差がなくなるくらいまで徐々に埋まっていきます。谷1および谷2の6世紀の堆積層からは須恵器、土師器を中心に、木製品(木製錘、大足の部材)などが出土しています。また量的には多くありませんが、馬骨や馬歯などの動物遺存体も出土しています。特に谷1の斜面からは、5世紀代の須恵器や製塩土器、U字形板状土製品などと、6世紀の須恵器が共に斜面に貼りつくようにびっしりと検出されました。おそらく6世紀に集落域で新たに竪穴住居や掘立柱建物を構築した時に、5世紀の遺構を壊し、それらを谷1へ廃棄しているものと考えられます。

小結

以上のようにF調査区は、北西に舌状にのびた自然堤防の高まりの上に、5世紀に数棟の竪穴住居と掘立柱建物、井戸などからなる集落が形成されました。西には大溝が流れ、北は浅い谷2によって北隣のD調査区の5世紀集落と区画されていたようです。6世紀になると5世紀の竪穴住居よりも規模を大きくし幾度も建替えを行いながら集落を営んでいます。北の谷2では小規模な水田耕作を行っていました。また西の谷1は集落内で使用された土器などを廃棄する場であったようです。谷2よりも谷1の方が6世紀の土器、木製品が多く検出されました。

北隣のD調査区や今回のF調査区では、5世紀に引き続いて6世紀にも竪穴住居がみられ、その時期に掘立柱建物が中心となるA〜C調査区やE調査区とは集落の様相がやや異なっていたようです。蔀屋北遺跡全体の集落変遷については、他の調査区の成果とあわせて最後に述べたいと思います。

3.木製鞍について

図8 牧の馬の馬装(四条畷市南山下遺跡の馬形埴輪をもとに作図
図8 牧の馬の馬装(四条畷市南山下遺跡の馬形埴輪をもとに作図

この木製鞍は後輪(しずわ)と考えられ(図8)、大津の中層と呼んでいる5世紀中頃の堆積層から出土しました(図7)。遺存状態が非常によく、内外面とも黒漆が塗ってあります。外面の漆の方が、光沢がより鮮明で、内面の漆は使用に際して擦れたのか、やや光沢に乏しく、所々漆塗膜が剥がれています。現存幅46.6cm(復元幅48cm)、高さ27cm、最大厚4.5cmを測ります。


図7 大溝の木製鞍出土状況
図7 大溝の木製鞍出土状況

鞍の上端はやや丸みをおびた方形となっています。鞍外面右側の雉子股(きじまた)は末広がりになり、端部までしっかり残っていますが、右側の雉子股と左右の磯(いそ)(鞍の外面中央部)の下端は欠損しています。ちょうど磯が膨らむように加工してあります。磯と海(うみ)との境には最大幅0.7cmの凸帯が削り出されています。このような表現は、古墳に副葬される金属装の鞍を模倣しているものと考えられます。また磯のもっとも盛あがった所は、やや平坦に加工されており、州浜形(すはまがた)を挟んで一辺約1cm方形の孔が左には2つ、右には1っあけられています。この孔の用途は明確ではありませんが、しおでを通す孔かもしれません。(鞍の部分名称は図9参照)。

図9 鞍の部分名称(木器集成近畿原始編より)
図9 鞍の部分名称(木器集成近畿原始編より)

一方、鞍の内面には左右に高さ1.5cm、最大幅約2cmの段が作り出され、段の内側は、右側は欠損していますが、左側には鞍の下端から幅2.5cm、断面「コ」の字形に溝が彫ってあります。この溝に向かって鞍の内面から方形の孔が3つあけられています。これらは段に掘り込まれた3つの浅い溝と対応し、段の下にあてがった居木を革紐などで固定したと考えられます。内面右側の作りも同様であったと考えられます。

この鞍は、日本列島に乗馬の風習が伝えられて間もない頃の、最古級の鞍として全国的にも珍しく、さらに内外面ともに漆がよく残ることを併せると、大変貴重な資料ということができます。白木の簡素な造りではなく、漆塗りの大変精巧な造りであることから、日常的ではない特別な場面で使用されたのか、また身分の高い人が所有していたものなのかもしれません。

蔀屋北遺跡では過去の調査において、やはりこの大溝から輪鐙(わあぶみ)とひょう轡(ひょうぐつわ)が出土しており、この鞍の出土によって、主要な馬具が三点セットで揃ったことになります。「河内の馬飼」の故地として、牧で飼育されていた馬にどのような馬具が装着されていたのかが実物として明らかになったこと、また古墳の副葬品による馬具のセット関係の把握ではなく、集落遺跡でのセット関係の判明は大変重要な調査成果ということができます。

牧の馬の馬装は、四條畷市南山下(みなみさげ)遺跡で出土している馬形埴輪が大変参考になります(図8)。この埴輪馬には輪鐙、ひょう轡、鞍が表現されています。鞍は今回出土した鞍と同じデザインであることがわかります。またこの馬のずんぐりした体形は、過去にA調査区から検出された馬埋納土坑の全身骨格から復元されている、「在来馬でいう御崎馬の小さいクラス程度の体格」を見事に表現しているといえます。この南山下遺跡の馬形埴輪と蔀屋北遺跡出土の馬全身骨格と馬具(輪鐙、ひょう轡、鞍)は、本遺跡周辺に展開した牧の馬の姿を具体的にイメージさせてくれる第一級の資料ということができます。

4.蔀屋北遺跡の古墳時代中期〜後期集落(5世紀〜6世紀)

平成13年から始まった蔀屋北遺跡の発掘調査も、A〜F調査区までの全体で約26,000m2という広大な面積が調査されたことになります。これをもって、まとまった面積を対象とする調査は終了しますので、ここで今回までの調査によってみえてきた蔀屋北遺跡の古墳時代中期〜後期の集落について考えてみたいと思います(図10)。

図10 蔀屋北遺跡古墳時代中・後期遺構面全体図
図10 蔀屋北遺跡古墳時代中・後期遺構面全体図

①立地

蔀屋北遺跡は四條畷市の西端部、寝屋川市と境を接する位置にあります。東方には飯盛山を間近に望むため、あたかも山麓に立地しているかのようにみえますが、実際は遺跡の北を西流する讃良川や、南を西流する岡部川などの中小河川が作り出した沖積地に立地しています。そして現在は想像しがたいですが、古環境の復元研究によって、古墳時代には「河内湖」の湖岸線が蔀屋北遺跡の西側近辺にあったことが分かっています。

蔀屋北遺跡の古墳時代集落は、弥生時代後期頃に形成された自然堤防上に立地しています。集落の範囲については、D調査区からE調査区にかけて見つかった南北方向の大溝を西端とするものです。他の三方はともに調査区外(遺跡分布範囲では讃良郡条里遺跡にあたる)へのびており、したがって集落域は30,000m2を上回る範囲に広がっていることが分かりました。この中に5世紀初頭から6世紀末までほぼ連続して集落が営まれていました。これらの集落は谷、傾斜面などの自然地形や区画溝によって、北東、南東、南西、西、北西の五ヶ所の居住域に区切られており、それぞれの居住域から竪穴住居跡、掘立柱建物跡、井戸などの遺構が多数見つかりました。

②変遷

5世紀初頭〜前半

蔀屋北遺跡で出土した集落に関わる土器の中で、もっとも古く位置づけられるのは大津の溝底付近から出土した初期須恵器や土師器、韓式土器などで、これらは古墳時代中期の5世紀初頭〜前半のものでした。ただしこの時期の遺構は北東居住域に、数ヶ所の墳墓、土坑が点在するのみで、住居跡などの主要な遺構は見つかっていません。C調査区のさらに北方ないしは北東方に存在する可能性が高いものと考えていますが、いずれにしても初期の集落はごく限られた地域に小規模に作られたものであったと考えています。

5世紀中頃

前段階と同じ居住域で竪穴住居跡が認められ、南東居住域などからも船材を枠に転用した井戸や、溝などの遺構がみつかるなど、集落域の拡大が認められました。また遺物も須恵器、土師器、韓式土器、製塩土器などの土器類がみられ、特に溝からは土器、木製品、鉄製品、鹿角製品、玉類などが多種多量にみつかっています。

5世紀後半〜末

五ヶ所の居住域全域に数十棟の掘立柱建物跡や竪穴住居跡をはじめとして、船材を枠に転用した井戸、製塩土器埋納土坑、馬埋納土坑などの遺構が多数みつかりました。なかでも他より一段高い位置にある北東居住域は、この時期には傾斜面に巡らした溝で方形に区画されており、その内側に掘立柱建物跡や竪穴住居跡が多数立ち並んでおり、五ヶ所の居住域の中でも中心的な居住域といえます。また西の大溝は浅くなりながらも、なお溝として機能しています。遺物も大溝や各所の遺構から膨大な量が出土しており、この時期が集落全体の最盛期といえます。

6世紀前半 南東居住域を除く四ヶ所の居住域で数十棟の掘立柱建物跡や竪穴住居跡、井戸などがみつかっていますが、その大部分が北西、西、北東の居住域に集中しています。集落の規模がやや縮小し始めました。大溝はほぼ埋没し深さ1m程の谷状地形に変わっています。

6世紀後半〜末 北東居住域で数棟の掘立柱建物跡がみつかっており、また西居住域や北西居住域では掘立柱建物跡や竪穴住居跡がみられます。北東居住域では掘立柱建物が集落を構成する建物の中心ですが、西・北西居住域では掘立柱建物と竪穴住居の両方がみられます。南東・南西居住域ではこの時期の遺構は顕著ではなく、集落は全体に北の方へ偏るようになります。6世紀末になると全居住域ともに集落を構成する遺構が激減し、集落は蔀屋北遺跡の周辺へ移行したと考えられます。

③遺跡の性格

これまでの調査成果から、蔀屋北遺跡の古墳時代中期〜後期集落がどのような性格をもつ集落であったかということがみえてきました。

出土遺物の中に陶質土器、韓式系土器、移動式篭、U字形板状土製品、そして百済系の特徴を示す鉄製のひょう轡などがみられることなどから、5世紀中頃以降に集落を営んだ集団には、朝鮮半島の百済地域から渡来した集団がいたと考えられます。また5世紀前半に、蔀屋北遺跡で集落を営み始めた集団にも、百済系の渡来集団がいた可能性が考えられますが、これについては今後各調査区の出土遺物(土器など)が詳しく検討されることによって、その様相がより明らかになってくることでしょう。

蔀屋北遺跡では、大型の準構造船の船底や舷側板を再利用して枠にした5世紀中頃や後半の井戸が複数見つかっています。古墳時代には、朝鮮海峡、瀬戸内海、大阪湾、河内湖を経由することで、朝鮮半島と蔀屋北遺跡間の直接航行が可能でした。以来百数十年にわたって彼らやその子孫は集落を営み続け、準構造船で往来していたのでしょう。

また、出身地を示す遺物と共に、馬一頭を埋納した土坑、木製の鞍や輪鐙、鉄製のひょう轡などの実用的な馬具、多量の製塩土器など、彼らの生業を思わせる遺構や遺物も多数出土しました。これらの遺物の出土によって彼らが牧の経営(馬の飼育)を生業としていたことが明確になりました。

朝鮮半島から日本列島に馬がもたらされ、牧の経営が始められたのは5世紀中頃で、北河内と信州の伊那で相次いで成立したとされています。これまでも周辺の遺跡からは牧の存在を思わせる遺構や遺物がいくつかみつかっていますが(図4)、蔀屋北遺跡は、大きさがわかる馬一頭の全身骨格や、馬を輸送したと考えられる大型の準構造船、百済系の特徴を示す轡などの実用的な馬具が揃って出土しており、これらによって蔀屋北遺跡一帯が主に百済地域からの渡来人によって5世紀中頃に成立した初期の「河内の牧」にあたるといえるでしょう。

今後隣接する讃良郡条里遺跡をはじめとして、古代河内湖周辺の遺跡の調査成果との比較検討を行うことにより、蔀屋北遺跡の位置づけはより明らかになるでしょう。