石神遺跡第18次調査

石神遺跡第18次調査
2006年3月11日(土)
独立行政法人 奈良文化財研究所

調査区全景(上層)の写真石神遺跡・水落遺跡復元模型(南西から)の写真

石神遺跡とは

調査区位置図

石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置します。1902年に噴水施設の一部と考えられる須弥山石しゅみせんせき、石人像が掘り出されました。『日本書紀』には飛鳥寺の西、あるいは甘樫丘の東の川上かはらに須弥山を作り、都貸羅とから多彌たね嶋、隼人はやと蝦夷えみし粛慎みしはせと呼ばれた律令国家周辺の人々を迎えて饗宴きょうえんをしたとあり、石神遺跡をこの饗宴施設、現代風にいえば迎賓館としての役割を持つ施設とする考えが有力です。

石神遺跡の調査

石神遺跡の調査は、1981年から続いています。多数の掘立柱建物、石組の池や溝、石敷などが確認され、これらは大きくA期(7世紀前葉〜中葉)、B期(7世紀後葉:天武朝期)、C期(7世紀末〜8世紀初:藤原京期)に区分できます。饗宴施設と考えられるのはA期にあたります。以後、建物の配置が変化していくことから、施設の性格も異なっていったと考えられます。

遺跡の中心施設は南北約180mの範囲で、南を飛鳥寺に隣接する東西塀(1・3・10次調査)、北を東西方向の石組溝と塀(13・14次調査)で区画しています。遺跡の北には古代の幹線通路である阿倍あべ山田通が東西方向に通ると想定されています。

今回の調査

今回は石神遺跡北側の状況、およひ阿倍山田道の確認を目的に第16次調査の北方に調査区を設定しました。南の第15・16次調査では3本の南北溝が調査され、木簡等の多量の遺物が出土しました。

調査区周辺は7世紀以前には沼地でした。この沼地はA期に整地されたことが明らかになっています。

過去の調査でも確認されている南北溝2〜4は調査区を南北に縦断しており、出土遺物の年代からB〜C期に機能したことがわかります。また3本の溝に先行する遺構として、南北溝2の下層に南北溝1があります。この溝には岸の一部に石組や杭列といった護岸施設が残っていました。B期に機能したと考えます。

これらの南北溝を埋め戻した後に、礫敷れきじきおよび礫を詰めた東西溝1がつくられます。

想定されている阿倍山田道については、今回の調査においても確認できませんでした。

遺構平面図(S=1/300)

出土遺物

出土下駄・鰻出土土器
観世音経木簡

木簡、封緘ふうかん木簡、銅製・木製人形ひとがた斎串いぐし、舟形・鳥形木製品、こて、横櫛、下駄、漆器、琴柱ことじ、土器、墨書土器、瓦などが出土しました。

木簡のうち、「観世音経かんぜおんきょう」と書かれた木簡には「己卯きぼう年八月十七日」と年月日が記されています。己卯はつちのとう679年(天武8年)にあたります。日本列島内における観世音経の存在を記載した史料の中では、今のところ年代が明示されている最も古い例となります。観世音経が観世音菩薩かんぜおんぼさつ信仰の基本的な経典であることを考えると、アジア各地に広まった観音信仰が日本にどのように受け入れられたのかを考えるための貴重な史料になります。

また、祭祀具、建築工具、生活用具、楽器といった多種多様な道具の出土によって、飛鳥の人々の彩りある生活をうかがい知ることができます。中でも鋼製や木製の人形、斎串、舟形・鳥形木製品は、天武朝以後活発におこなわれるはらえなどの祭祀行為にともなう遁具とみられ、この頃の祭祀の形成と発展を考える際の貴重な資料になります。

南北溝は更に北へ続くことが明らかとなりました。また、多種多様な遺物が出土しました。特に「観世音経」木簡や鋼製人形などの祭祀具には、宗教的な知識や行為の一端が認められます。これらの遺物がどこからどのようにもたらされ、ここに埋まるに至ったのかという点については、周辺の状況を更に明らかにする必要があり、阿倍山田道の確認を含め調査を進めていきたいと考えています。 (2006年3月)

石神遺跡第18次調査現地説明会資料
(飛鳥藤原第140次調査)
独立行政法人奈良文化財研究所飛鳥藤原官跡発掘調査部
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