恭仁宮跡
2005年11月26日(土)
京都府教育委員会
元号 | 天皇 | 西暦 | 月日 | 記事 |
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天平12 | 聖武 | 12月6日 | 右大臣橘宿禰諸兄、遷都に備えて山背国相楽郡恭仁郷を整備する。 | |
12月15日 | 天皇前にあって恭仁宮に幸し、はじめて京都を作る。太上天皇皇后後にあって至る。 | |||
天平13 | 741 | 1月1日 | はじめて恭仁宮にて朝賀を行う。宮垣いまだならず、めぐらすに帷帳をもってする。この日五位以上を内裏に宴す。禄を賜うこと差あり。 | |
1月16日 | 大極殿に御して宴を百官の主典以上に賜う。 | |||
7月10日 | (元正)太上天皇、新宮に移る。天皇河頭に迎える。 | |||
7月13日 | 群臣を新宮において宴し、女楽高麗楽を奏させる。 | |||
8月28日 | 平城の2市を恭仁京に移す。 | |||
9月12日 | 木工頭智努王・民部卿藤原朝臣仲麻呂・高岳連河内・主税頭文忌寸黒麻呂の4人を遣わして、京都の百姓の宅地を班給し、賀世山西道より以東を左京、以西を右京とする。 | |||
9月16日 | 賀世山の東河に橋を造らせる。 | |||
11月21日 | 右大臣橘宿禰諸兄の奏により、勅して、恭仁宮を大養徳恭仁大宮と号する。 | |||
天平14 | 742 | 1月1日 | 大極殿未完成のため、仮設の四阿殿で朝賀を行う。石上・榎井両氏ははじめて大楯槍を樹てる。 | |
1月16日 | 天皇、大安殿に御して群臣を宴す。又、大宮に入る区域の百姓20人に爵一級を賜い、都内に入る者は、男女を問わず物を賜う。 | |||
2月1日 | 皇后宮に幸して群臣を宴す。 | |||
2月5日 | 新京の宮室未完成のため、新羅使を大宰府で饗応し放還する。この日、はじめて、恭仁京の東北道を開きいて、近江国甲賀郡に通じさせる。 | |||
4月20日 | 天皇、皇后宮に御して五位以上を宴す。 | |||
8月5日 | 大宮壇築造の功により、造宮録正八位下秦下嶋麻呂が従四位下の位、秦公の姓並びに銭100貫、施100疋、布200端、綿200屯を賜わる。 | |||
天平15 | 743 | 1月3日 | 天皇、大極殿に御して、百官の朝賀を受ける。 | |
1月7日 | 天皇、大安殿に御して、五位以上の官人を宴す。 | |||
5月5日 | 群臣を内裏にて宴する。 | |||
11月13日 | 群臣を内裏に宴する。 | |||
12月24日 | はじめて平城の器枚を運び、恭仁宮に収め置く。 | |||
12月26日 | 平城の大極殿並び歩廊を壊って、恭仁宮に遷し造ること四年にして、その功、わずかにおわり、用度の費す所計るべくもない。ここに至って、さらに紫香楽宮を造る。よつて恭仁宮の造作を停む。 | |||
天平16 | 744 | 1月1日 | 廃朝し、五位以上を朝堂に饗す。 | |
閏1月1日 | 百官を朝堂に集めて、恭仁・難波二京いずれを都とするかを問う。 | |||
2月20日 | 恭仁宮の高御座ならびに大楯を難波宮に運ぶ | |||
2月26日 | 難波宮を皇都とする。 | |||
12月15日 | 恭仁宮の兵器を平城に運ぶ。 | |||
天平18 | 746 | 9月29日 | 恭仁宮大極殿を国分寺に施入する。 |