長岡宮第443〜445次調査

長岡宮翔鸞楼しょうらんろうを発見

長岡宮第443〜445次調査
平成17年(2005年)10月30日(日)
向日市教育委員会
(財)向日市埋蔵文化財センター

想像図

1 調査の目的

第1図 今回の調査位置

第1図 今回の調査位置

今回の調査は、向日市上植野町南開60−3の一部で平成17年8月22日〜10月31日にかけて行いました。向日丘陵の南端付近に位置します。現在の地表面の標高は29.5mから30.7m前後で北から南に向かって傾斜しています。
長岡京では朝堂院南面回廊(西側)の南半部と朝堂院の前面にあたります(第1図)。朝堂院南面回廊は宮第437次調査(本年3月に調査)によって回廊から築地に構造が変化することが判明し、門の両側のみに回廊のとりつく、いわゆる翼廊よくろう形式であるとわかりました。しかし、翼廊西端の柱の間隔が他の柱間隔と異なり構造上どのような復原をすべきかについて課題を残しました。

そこで、今回の調査は、南面回廊の構造を明らかにすること、朝堂院前面の土地利用について情報を得ることを目的に実施しました。

その結果、南面回廊が、西端で折れ曲がり前面に楼閣と思われる礎石建物が付設されることが判明しました。 上の絵は今回の成果をもとに推定した長岡宮朝堂院前面の様子です。


第2図 今回の調査地と周辺で見つかった遺構

第2図 今回の調査地と周辺で見つかった遺構

2.発見した遺構

今回の調査で発見された遺構は、

  1. 南面回廊に関する遺構
  2. 南面築地に関する遺構
  3. 奈良時代に関する遺構
の3つにまとめられます

第3図 今回見つかった遺構

第3図 今回見つかった遺構

(1) 南面回廊に関する遺構

遺構には南に延びる回廊SC44307、その前面にある礎石建物SB44404、南北方向に延びる回廊基壇西端地覆石据え付け溝SD44301と回廊基壇西端地覆石抜き取り跡SD44305と、東で検出した基壇東側地覆石抜き取り跡SD44308(地覆石の据え付け跡と地覆石の抜き取りを埋めた跡)があります。

回廊SC44307の礎石据え付け穴はP3・5・6の3基(Pl・2・4は削られて不検出)を確認しました。柱の間隔は東西2.4m(8尺)、南北3.3m(11尺)の間隔です。この据え付け穴は南面回廊の南側据え付け穴推定位置よりもさらに南3.3m離れた位置で見つかっています。これは朝堂院南面回廊が南北方向に折れ曲がっていたことを示しています。残念ながら他の柱跡は後世に削られたために発見できませんでした。

礎石建物SB44404の礎石基礎を8基確認しました。柱の間隔は東西、南北とも2.4m〜3.0m(8〜10尺)です。建物の全容は不明です。今後、検討する余地を多く残していますが、柱の配置や間隔から総柱構造の建物と考えられます。また、後で記したように回廊基壇がそのまま建物の外周を巡ることから回廊と一連の建物と考えられます。このような回廊の先に別の建物が付設される構造を他の都宮に求めると平安宮応天門の左右の構造と類似性が高いことが認められます。するとこの建物は翔鸞楼しょうらんろうと呼ばれる楼閣に相当すると考えられます。礎石の基礎は珍しい造り方がされていました。朝堂院の南西部(市立勝山中学校から西向日駅)には、かって谷があり、都を造るときにこの谷を埋めて平坦にしたことがわかっています。平坦に整地した後に、穴を掘って基礎が造られたのではなく、谷を埋めるのと同時に礎石の基礎が造られていたことが判明しました。

西側で見つかった溝SD44301は、回廊基壇西側地覆石を据えるために掘られた溝です。幅0.7m、深さ0.15m、長さ7.5m以上あります。SD44301の西側で確認したSD44305は長岡京廃都に伴いその基壇を解体し、地覆石を抜き取るときに掘られた跡です。幅0.9m以上、深さ0.25m、長さ約15mあります。据え付け溝は途中で新しい遺構に壊されて消滅していますが、抜き取り跡は南に延びているので、基壇も元々は南に延びていたことがわかりました。現時点ではどこまで延びるのか不明です。

東側で見つかった回廊基壇東側地覆石抜き取り跡SD44308は、幅1.7m以上、深さ0.20mです。北端部では「 」┘」字状形を呈します。この部分は、東西方向の地覆石と南北方向の地覆石が階段状に組みあわされていたことがわかりました。
階段かも知れません。溝は、18mほど南に延びて、東に2m曲がり、また南に曲がります。南に約5.4m延びて、東に3m曲がり、もう一度南に曲がります。回廊の南側の礎石建物を取り囲む様に設けられていることが判明しました。南の延長部分は確認できませんでした。

回廊SC44307の内側で、柱の間隔が東西3.0m、南北は一番北側が2.1m、以南が3.3mで並ぶ柱穴列(足場SB44315)が発見されました。回廊建設時の足場の穴と考えられます。


平安宮朝堂院復元図(『平安京堤要』に加筆)

平安宮朝堂院復元図(『平安京堤要』に加筆)

(2) 朝堂院南面築地に関係する遺構

築地SA43706の痕跡は、溝SD44305北端部で見つかりました。回廊基壇西端地覆石据え付け溝SD44301北端よりやや南によった位置から西側地覆石抜き取り跡SD44305が掘られています。これは築地があるために抜き取り用の溝を掘ることができなかったことを示しています。

(3) 奈良時代の遺構

柱跡を9基確認しました。奈良時代の役所跡に関係する建物と思われます。

3.まとめ

今回の成果は以下のようにまとめられます。

  1. 朝堂院南面回廊が西端で南に折れ曲り、南方に礎石建物が付設されていることがわかりました。
  2. 礎石建物はその配置から平安宮朝集殿院南門(応天門)に付設された翔鸞楼しょうらんろう相当施設の可能性が強いと判断できます。
  3. 絵図や文献などで見られる翔鸞楼相当施設が日本で初めて考古学的に確認されたことになります。
  4. 政務・儀式の場である朝堂院の前面に楼閣を設ける建築様式が長岡宮朝堂院で導入され、平安宮朝集殿院に引き継がれたことがわかりました。楼閣を伴う門は中国ではけつと呼ばれ、皇帝の権威と人民への恩徳を示す象徴と考えられています。
    桓武天皇は新天地長岡京で自らの皇統の正統性と権威を高めるため、唐長安城にあった闕を模倣し、朝堂院の前面に楼閣を建設したのでしょう。この建築様式は唐の制度や文化を積極的に取り入れた桓武朝を最も端的に示す遺構と評価できます。
  5. 朝堂院南門の前には二条大路が通過しないことが明らかになりました。これは、現在推定されている長岡京の条坊を考えなおさなければならないことを示しています。
  6. 今回の発見は長岡京と平安京の関係を考える上で欠かせない資料であるばかりではなく、日本古代都城研究にとっても極めて重要な成果といえます。