庭鳥塚古墳

庭鳥塚古墳
2005年9月3日(土)
羽曳野市教育委員会

1.はじめに

近畿鉄道南大阪線「古市駅」から南に約2kmの羽曳野市東阪田に所在する庭鳥塚古墳は、閑静な住宅地の一角に保存されていました(図1)。古墳は、羽曳野の東辺を北流する石川と羽曳野市の西辺に南北に長い羽曳野丘陵に挟まれた、標高42mの中位段丘に立地します。中位段丘の東側に石川の氾濫原、西側に旧河川が存在したことを示す南北の凹地の存在が認められます。

庭鳥塚古墳が築かれた段丘上には弥生時代の集落遺跡である東阪田遺跡や喜志遺跡が存在します。中でも喜志遺跡は、古くから知られた弥生時代の集落遺跡であり、東阪田遺跡では旧石器から奈良時代の遺物が出土しているほか、平安時代の掘立柱建物が確認されています(図1の網目部分)。段丘の中央には近世の東高野街道が縦断し、古代から南への交通の要衝であったものと思われます。

図1 庭鳥塚古墳の位置図と石川右岸域の前期古墳

図1

2.調査の経過

庭鳥塚古墳は30年ほど以前には一部の研究者には認識されていましたが、古墳の記述がなくその存在は周知されていませんでした。このたび、整地によって墳丘の一融が削平され、削られた断面の粘土榔が明らかとなりました。そのままでは自然崩壊の恐れがあるため緊急調査を実施することになりました。

調査前の庭鳥塚古墳は鬱蒼とした竹薮で墳丘の存在すら確認できない状況でしたので、まず墳丘の竹や樹木の伐採から入りました。伐採してみると小高い墳丘が現れ、2ケ所に角が観察できましたので、「方墳」である可能性が高くなりました。そして、測量を実施しましたところ、東西13.5m、南北は現状が14mを測り、整地された部分を復原すれば20mの墳丘が復原できました。さらに、墳丘の北側に高まりが存在することから前方後方墳の可能性もでできました。そこで調査は、埋葬施設の確認ための墳丘平坦面(図2の粗い網目部分)と墳形・規模の確認ためのトレンチ(図2の濃い網目部分)を墳丘に6ケ所設定しました。発掘調査は6月20日から実施し、現在も継続中です。

図2 庭鳥塚古墳の後方部墳丘測量図・トレンチ位置図

図2

3.調査成果

【墳丘・外部施設】

図3 庭鳥塚古墳の墳丘図

図3

後方部と考えられる西側に設定した第1トレンチ・第4トレンチ・第6トレンチでは、墳丘裾に廻らした葺石が確認されました。葺石は拳大から人頭大の礫を用い、第1トレンチと第6トレンチの葺石が直線的に繋がることから前方部が附設する主墳部は当初考えていた方形であることがわかりました。ただし、検出された葺石は端部から粘土槨の中心まで11mを測ることから後方部の幅を約22mと復原できます。南北長については現在のところ不明ですが、東西幅と同規模になると考えられます。後方部北西角にあたる第4トレンチでは葺石の残りが良く、円筒埴輪が発見されました。他のトレンチから埴輪片の出土が少ないので、円筒埴輪はある程度の間隔を置いて樹立されていたことがわかります。

後方部は約3mの高さに盛土によって構築されていたことが、墳丘南側の断面から見ることができました。埋葬施設を設置するために頃丘頂きから掘削された墓墓壙に面して固く締まる土が積み上げられ、それ以外は砂礫を使用していました(図4)。

前方部に設定した第5トレンチでは、緩やかな角度をもつ葺石が検出され、後方都同様に盛土で墳丘を構築していました。前方部の北側にはトレンチを入れていませんので、その広がりは現状の高まりから前方部長約23m、同幅約17m、同高さ2m以上の規模を測ります。

したがって、前方部を北側に向けた全長約50mの前方後方墳となります(図3)。


図4 庭鳥塚古墳の盛土模式図

図4

【内部施設】

図5 粘土槨平面図

図5

図6 粘土槨断面模式図

図6

後方部の墳丘中央で1基の粘土槨が確認されました。粘土槨は墳頂平坦面から掘り下げた墓境内に設置されていました。墳頂部で検出した墓壙上面は東西6m、南北6.5m以上の大きさをもち、探さ1.9mまで掘り下げていました。基壙の東、西の壁は急峻な角度をもちますが、北の壁面は有段に掘削され北東隅に斜路が確認されました。作業道として使用していたものと考えられます(図5)。

粘土槨の構築方法は、掘削した墓壙の底部に緻密な土で地業した後(図6(1))、粘土を混ぜた礫で基礎を築きます(図6(2))。その上に粘土棺床を設け、両脇に拳大の礫を集積(図6(3))して排水の役割をはたしています。粘土棺床の上に木棺を安置し、棺の側板に粘土を厚く包み、この側粘土の上面が遺物を納置する空間になります。この段階で墓壙内に砂礫を充填しています (図6(4))。

棺は長さ2.7m以上、幅約0.9m、高さ0.4m以上の箱形と推定されますが、夸※1抜式か組合せ式かは今のところ不明です。棺蓋の一部が銅鏡の上に残っていましたので、棺材はコウヤマキであることがわかりました。

棺内に副葬品を納めた後に棺蓋をし、棺の両側に副葬品を並べ被覆粘土を施します。その規模は長さ3.3m以上、幅2.4m、高さ0.9mでした。


5.出土遺物概要

副葬品は棺内と棺の両脇に並べられた粘土榔内で検出された棺外があります(図7)。

棺内の副葬品には北側中央に鉄刀、その東側に鏡背を上に向けた銅鏡がありました。その南に朱とその脇に用途不明の鉄器が検出されました。先の存在から頭位は北と考えています。

棺外は、現在のまで確認された副葬品の内訳は棺の東側ではヤリ先1本、銅嫉13本、鉄鉱35本、簡形銅器1点、棺の西側では鉄刀1振、銅鏃6本、鉄鏃14本、筒形銅器1点、鉄斧が2点です。

鋼鏃、鉄鏃の矢柄には漆を塗った痕跡が残り、出土状況から銅鏃、鉄鏃ごとに束にして副葬されたものと考えられます。

図7 粘土槨・棺内副葬品配置模式図

図7

6.出土遺物

埴輪(図8)

第4トレンチで出土した埴輪は円筒形の破片で、総数40点程度を数えます。観察した破片の胴部外面には赤色顔料が塗布され、その外面調整にはへラや指によるナデが認められ、内面もナデによる調整でした。器壁の厚みが0.7cmと薄いことも特徴的です。突帯の突出度は余り高くなく、断面が台形状を呈しています。スカシ孔は三角形と考えられ、突帯上下に近接して穿たれることから、同一段には千鳥式に配されていたことがわかります。

土器(図9)

器種は広口壷で、口径18.6cm、口縁高7.5cmを測ります。胴部は破片が遺存し、復原途中です。外面をハケメ調整、内面はヘラケズリによる調整で胴部の器壁を薄く仕上げています。胎土にカクセン石を含むことから生駒西麓の土器で、河内産特有の茶褐色を呈しています。

図9 第4トレンチ出土土器実測図

図8

図8 第4トレンチ出土埴輪実測図

銅鏡

鏡は舶載の三角縁四神四獣鏡で、直径21.5cmを測ります。「吾作竟自有紀 辟去不羊宜古市 上有東王父西王母 令人長命多孫子」の銘帯が見られます。同型(笵)鏡は静岡県磐田市の新豊院山D2号墳があげられますが、鈕座に差異が見出せます。

筒形銅器

2点出土している筒形銅器は、いずれも2段のスカシ孔があり、一方に開口する中空で円筒形を呈します。口縁部に目釘穴が存在し、ヤリやホコの柄の下端につけた石突や杖の飾り金具と考えられています。

棺の東側から出土した図9−1は全長14.5cm、口縁径3.2cmの大きさです。銅器の中から長さ5.5cm、太さ0.6cmの銅の棒が出土しています。振ると音が出る仕組みにしています。

図9−2は棺の西側から出土した筒形銅器です。全長15.2cm、口縁径3.2cmの法量をもちます。銅器の中から鉄棒が出土しています。

図9-2 副葬品実測図

図9-2

まとめ

庭鳥塚古墳の築造時期は出土遺物から古墳時代前期後半(4世紀中頃〜後葉)と推定されます。今回その存在が明らかとなったことにより石川左岸流域に勢力をもつ古墳時代前期の首長の墓が新たに確認されたことに重要な意味をもちます。埋葬施設は石川流域特有の粘土榔でありながら、墳丘の形状は前方後方墳であった。全長50mの古墳の規模は今後の調査で明らかにされるが、さらに大きくなる可能性があります。 副葬品の内容から武人的性格が強い被葬者が浮かびあがり、舶載の三角縁四神四獣鏡の保有は、ヤマト政権の軍事の一端を担った首長である可能性が考えられます。いずれにせよ、今後の調査の進展を待って結論づけてまいります。

図10 棺内出土銅鏡

図10