史跡今城塚古墳 第8次調査

2005年2月20日(日)

※写真はサイト管理者が撮影

調査面積 約680平方メートル
調査期間 平成16年6月24日から
調査主体 高槻市教育委員会
調査担当者 宮崎康雄

1.はじめに

6世紀前半に築かれた今城塚古墳は、淀川北岸で最大の前方後円墳です。全長は190m、南北には造出を伴い、二重の濠と堤が墳丘の周囲を巡ります。墳丘は伏見地震(1596年)による大規模な地滑りのため、とくに後円部北半分が大きく崩壊しています。

高槻市では今城塚古墳の保存整備に向けた規模確認調査を平成9年度から実施し、古墳本来の姿を追究してきました。今回の第8次調査は、後円部上面の遺存状況などを知るために調査をおこないました。

2.調査でみつかったもの

<後円部>

昨年みつかった墳丘内石積、後円部上面の高まり、テラスの広がりなどを追求するために6ヶ所のトレンチを設定しました。

〔1トレンチ〕 後円部上面の遺存状況を把握するため、東端部に設定したトレンチです。

墳丘内石積は、平成15年度の7次調査で検出した石積から連なるものです。人頭大の川原石の小口面をそろえて規則的に積み上げ、盛土の中に構築されています。各石材は崩落を防ぐためか、外側を高く、内側を低く据えてがっちりと積んでいました。現存する高さは約13m、石積の斜面角度は約40度で、地震の影響とみられる陥没や撹乱がみられます。検出した範囲では、裾の標高は北側が高く、南側に向かってわずかに下降しています。裾からは南東方向に向かって排水溝が伸びており、石積との接点を断ち割ってみると、径20〜40cmの川原石が不規則に詰められた状態で土を詰め、全体として浸透水を排水口へ集める機能をもっていたと考えられます。

排水溝1は、墳丘内石積の裾からテラスまで直線状にのびる墳丘に組み込まれた石組みの暗渠溝です。7次調査で検出した「排水溝」に続きます。一部に地震による影響がみられますが、墳丘内石積の取り付き部から墳丘斜面に向かって約4.5mの間はほぼ水平にのび、その後、排出口に向かって墳丘斜面に沿って下降します。現況の傾斜角は20度前後です。取り付き部と排水口先端との高低差は約38m、総延長は15mです。石材は石積みと同様の川原石を用いています。取付口周辺を囲むように石材を据え、漏斗状に水を集める構造になっていました。流入部では、南側石、庭石、北側石を据え、墓石を横架していました。内法は幅約35cm、高さ約25cmで、内部は墓石と同じ向きに川原石を落とし込んだ暗渠状となり、隙間には流水時に堆積した砂や砂質土が詰まり、底石や側石には渇水時に付着した粘土や酸化鉄が認められました。

トレンチ1の出土遺物としては、撹乱土からの蓋形埴輪や石棺片があります。

1トレンチ写真
墳丘内石積の写真

墳丘内石積

墳丘内石積の写真

墳丘内石積

墳丘内石積の写真

墳丘内石積

排水溝1の写真

排水溝1

〔2・3トレンチ〕後円部上面中央に設定した調査区です。東西方向にのびる2筋の落ち込みを検出しました。

北側の落ち込みはおよそ幅25m、深さ03m、南側が幅5m以上、深さ1mと南側が深く、斜面や底では多数の石を検出しました。土管の断面観察では、2筋の落ち込みが平行してあることから、地震によって形成されたと考えられます。

落ち込んだ石は教ヶ所にまとまっており、現墳丘面での最も浅い北寄りでは地表下約03m(標高332m)のところで一面に広がります。石材は花崗岩・ホルンフェルス・砂岩などで構成され、わすかに結晶片岩が含まれます。とくに花崗岩が多く、葺石や墳丘内石積とは異なっています。各石材は一辺20〜30cmのものを主とし、最大長のものは約1mを測ります。築造後の二次堆積土からは石棺片(阿蘇ピンク石・二上山白石)のほか、ジャガイモ状の円礫(泉南酸性凝灰岩)、ガラス小玉、鉄製品(銑鏃・小札)などが出土しました。

石材の採取地については、葺石と墳丘内石積の川原石は東を流れる芥川中流域、結晶片岩については徳島県吉野川流域からはるばる運ばれてきたと推定されます。また、円礫は淡路島・洲本市周辺新たに特定されました。

3トレンチ写真
落ち込みの写真

落ち込み

落ち込みの写真

落ち込み

落ち込みの写真

落ち込み

2・3トレンチ出土石
石棺片の写真

石棺片
(阿蘇ピンク石/白石

  石の写真

結晶片岩/結晶片岩/円礫

〔4トレンチ〕7次調査で検出した2段目裾部のテラスや葺石などの状況を把握するために後円部南東斜面に設定し、あらたに排水溝2や円筒埴輪列を検出しました。

斜面部の墓石は検出長約24mを測り、北側から南東部にかけて大きく弧を描きながら、南側では地滑りのために外側に向かってわずかに膨らんでいます。川原石を規則的に積み上げ、斜面の角度は38〜50度とばらつきがありますが、40度前後が平均的なようです。石材の大きさは一辺10〜40cmを測ります。北半部では基底石をテラス上面覆土の中に埋めこんでいますが、南半部はテラス面から葺石を積み上げていました。また、北半は石材の小口面を、南半では長面を前面に積み上げるものが多く、両者の石材の用い万には異なった傾向がみられます。現存する高さは最大で1.7mを測ります。

排水溝2は、排水溝1の8.1m南側で検出しました。地震による墳丘盛土の崩壊のため、葺石周辺部しか遺存していません。その構造は排水溝1と同様に側石と底石を据え、蓋石を横架したものです。検出長は2.1m、内法は幅17cm、高さ20cmで、排水口は葺石斜面中に組み込まれた状況など、排水溝1とは設置のしかたも異なっています。

円筒埴輪列は調査区南半で検出され、検出した10点は底部から10cmほどが残存し、いずれも径は30cm前後です。埴輪列と葺石裾とは約0.4mの落差があり、斜長距離は約3.5mを測ります。

4トレンチ写真
排水溝2の写真

排水溝2

円筒埴輪列の写真

円筒埴輪列

葺石の写真

葺石

排水溝1の写真

排水溝1

  葺石の写真

葺石

〔5トレンチ〕 盛土の状況を確認するため、後円部北側の地滑りで形成された落差約4mの滑落崖に設定しました。崖面で地震による二次的な堆積土が観察できます。東端部では墳丘内石積の一部、斜面西側の裾では墳頂側から滑落した石材群の一部とともに石棺片や鉄製品などがみつかりました。

〔6トレンチ〕 後円部北西には最も高い標高(34.8m)を示す「高まり」があり、古墳本来の墳丘か、あるいは築城などによる後世の盛土なのかを確認するため、後円部西端からくびれ部・前方部にかけて設定した調査区です。

土層を観察すると、一辺30cm、厚さ10cm前後の土塊を0.5〜1mほど積みあげた古墳築造時の盛土単位が認められました。土塊はトレンチの下方では明瞭ですが、上部では不明瞭となります。

くびれ部から後円部・前方部に続く薄い黒色土層をはさんで盛土の積み方が異なっています。この層は後円部側で26度前後の角度を示します。また、くびれ部の状況から後円部側と前方部側を交互に積んでいったことがうかがえます。これらの盛土は最高所まで続いることから、「高まり」は古墳の本来の盛土であることが確認できました。また、北側への地滑り跡を明瞭にとどめ、「高まり」の現況頂部よりもさらに上方からの盛土が滑り落ちた様子が観察でき、当初の墳頂部はさらに高所にあったと考えられます。

6トレンチ写真
後円部の写真

後円部
地滑り跡/盛土

後円部から前方部の写真

後円部から前方部

くびれ部の写真

くびれ部

前方部のの写真

前方部の

3.調査でわかったこと

後円部は標高34.8mを示す最高所の「高まり」が墳丘の残欠であったことが確認できたことから、本来の墳丘頂は少なくとも現況より2m以上の高さがあることがわかり、前方部頂よりも高くなる可能性もでてきました。

墳丘内石積は、さらに南北に広がることが判明しましたが、くびれ部近くの6トレンチなどでその存在が確認されなかったことから、石積の広がりは後円部の一部に築かれたのか、後円部あるいは墳丘全体を取り囲むように築かれていためかは明らかではありません。排水溝すなわら暗渠溝については今回検出した2条以外にも設定されていた可能性が高いと考えられます。また、墳丘内石積の円弧状の裾まわりと葺石の円弧状の裾まわりは同心円状にはならないことから、両者は異なった目的あるいは基準のもとに施工されたものとみられます。後円部上面の石群は、調査結果を総合すると、墳丘内石積上端まで及んでいないことや、墳丘内石積とは異種の石で構成され、なおかつ花崗岩が多くみられるなど墳丘内石積と同じ目的を持った構築物とは現状では考えられません。しかしながら、それぞれの遺構は現状では不明ながら、本古墳の墳丘の構造にかかわる本質的なものであることは言うまでもありません。

なお、今城塚古墳の主体部はこれまでの学術研究面から、横穴式石室と考えられていますが、昨年発見された排水溝1が後円部をかけのぼり、墳丘内石積に取り付くことが判明したことから、主体部の位置・構造・規模等については、いまのところ不明と言わざるを得ません。