難波宮北西部の調査

現現地説明会
2004年2月21日(土)
(財)大阪府文化財センター

調査の経緯

今回の調査は、大阪府警察本部棟の新築第2期工事に伴うものです。今回の調査では、豊臣期の大坂城に関わる大規模な堀を検出し、大坂冬の陣前後の緊迫した状況を具体的に垣間見ることができました。その後、調査地北東部で古代の谷を検出し、ここから20点を超える絵馬や祭祀に関わる遺物が出土しました。これらは難波宮との関係において重要な調査成果であり、再び一般公開を行なうことにしました。

ふたつの難波宮跡

今回の調査地の南東には難波宮跡が史跡公園として整備されています。この難波宮跡はこれまでの発掘調査で大きく2時期に分かれることが明らかとなっています。そのうち前期難波宮と仮称される古い段階のものは、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊崎宮なにわながらとよさきのみやにあたると考えられています。また、瓦を伴う後期難波宮跡については神亀3(726)年に造営が開始される聖武天皇の宮と考えられています。

出土した遺物

今回の調査で検出した谷は古代にさかのぼるものであり、下層を中心に多くの遺物が出土しています。その中でも3層とした粘土層からは絵馬や斎串いぐしのほか、人形ひとがた琴柱ことじなどの祭祀関連遺物が出土しています。3層の出土遺物は大半が7世紀のものですが、わずかではありますが重圏文軒丸瓦じゅうけんもんのきまるがわらや奈良時代の土器片が出土しています。絵馬は現在までに26点の出土を確認しており、一遺跡での出土数としては群を抜いています。出土した絵馬は幅24cm前後のものが大半を占めていますが、小振りのものも出土しています。描かれた絵馬の多くは鞍や障泥あおりあぶみなどを表現した飾り馬が多く、半数以上が右向きです。多くの馬は墨で描かれた輪郭や鞍、障泥などが残るのみですが、一部では赤色顔料が残っています。

これらの絵馬は他の祭祀関連遺物などとともに難波宮に関連する国家的祭祀に関わるものである可能性が高いものと考えられます。

このほか、今回の調査では4層とした砂層から7世紀後半以前の土器とともに、漆が付着した土器片が1200点以上出土しています。前期難波宮の段階に当地へ各地から多量の漆が運ばれてきていたことを示しており、すでに今回の調査地の南側で検出されている大蔵と考えられる内裏西方倉庫群だいりせいほうそうこぐんとの関連においてもきわめて重要な位置を占めるものといえます。

古代の谷

今回の調査では調査地北西部と北東部で古代の谷を検出しました。北西部の谷は2000年の調査で検出した東西方向の谷(谷1)につながるものです。この谷からは西暦648年にあたる「戊申年ぼしんねん」と書かれた木簡が出土しています。今回の調査ではこの谷1の続きの調査に期待がかかりましたが、豊臣期の大坂城の堀によって削られていたこともあり、部分的にしか残っていませんでした。しかし、調査地北東部では南東から北西に向かってのびる谷を新たに検出しました(谷2)。この谷は全体からすると西側の肩部を部分的に調査したのみですが、調査地東端では花崗岩の集積を検出するなどしています。また、谷の南側では3個の柱穴ちゅうけつが東西に並んで検出されました。2個には直径約30cmの柱が残り、西側の柱は立ったままの状態を留めていました。この柱列はへいである可能性も高く、前期難波宮跡の宮域きゅういきの推定北端とほぼ一致しています。詳細な検討はこれからですが、今回の調査成果は難波宮跡北西部における土地利用の様相を考える上できわめて重要な意味を持つものといえます。