藤原宮朝堂院東第三堂

藤原宮朝堂院東第三堂 現地説明会資料

2004年3月20日(土)
奈良文化財研究所


藤原宮復元模型(橿原市教育委員会掲載許可済)藤原宮復元模型

東第一堂(第107次調査)南東から
写真:東第一堂(第107次調査)南東から

調査の経緯

藤原宮は持統8年(694)から和銅3年(710)までの16年間、持続・文武・元明3代の天皇にわたって営まれた宮殿です。藤原宮の中心部には、周囲に回廊をめぐらせ、巨大な建物が何棟も建ち並ぶ広大な空間がありました。大極殿院・朝堂院・朝集殿院です。これらの地区は、戦前に日本古文化研究所(以下、古文化研)によって発掘されていますが、柱の想定位置をねらった部分調査であったため、建物構造の細部など不明な点が少なくありません。そこで奈良文化財研究所では、1999年以降、中枢部の再発掘をおこなっており、今回はその7回目となります。

東第二堂(第120次調査)北から
写真;東第二堂(第120次調査)北から

朝堂院

調査地は、国家的な政務や儀式・饗宴の場であった朝堂院地区です。藤原宮の朝堂院は、南北約320m、東西約235mに及び、諸宮で最大規模を誇りました。内部には12棟の朝堂が東西対称に並んでおり、東第三堂の南半部を現在発掘中です。平安時代の史料によれば、東第三堂は「承光堂(しょうこうどう)」と呼ばれ、中務省(なかつかさしょう)・図書寮(ずしょりょう)・陰陽寮(おんみょうりょう)に属する役人の座が設けられるとあります。

東門(第125次調査)北から
写真:東門(第125次調査)北から

東第三堂

古文化研の調査によって、建物規模は南北15間(1間14尺で約62m)、東西4間(1間10尺で約12m)と復原されていました。瓦茸礎石建(かわらぷきそせきだ)ち建物で、屋根は切妻造(きりづまづくり)です。今回の調査では、南9間分(約37m)を検出しました。東西の柱間は古文化研の想定とはやや異なり、身舎(もや)は10尺(約3m)ですが、庇(ひさし)は9尺(約2.7m)となります。礎石はすべて抜き取られていますが、それを据えるための根石(ねいし)や栗石(ぐりいし)が良好な状態で残っていました。
棟通(むなどお)りにも礎石据付痕跡があり、床張りの建物であった可能性が高まりました。

基壇の周囲は緩やかに下降しており、バラスが敷かれていました。とくに雨落溝(あまおちみぞ)は設けられていません。基壇の外周には帯状に瓦が堆積していますが、これは建物の解体時に不要な瓦を廃棄したものと考えられます。

朝集殿院(第128次調査)南東から
写真;朝集殿院(第128次調査)南東から

朝堂の規模

これまで藤原宮の朝堂の規模は、古文化研の想定や平城宮の状況などから、第一堂が最も格式が高く、第二堂以下と格差があるといわれてきました。しかし今回の調査により、第二堂と第三堂の間にも建物の規模に遠いがあることが新たに判明しました(第二堂は南北15間、東西5間)。東第一堂・東第二堂は、国政を審議する大臣や大納言・中納言・参議の着座する場であったため、第三堂以下と格差をつけたのでしょう。

礎石据付堀形の検出 北西から
写真:礎石据付堀形の検出北西から

瓦堆積の一部 北から
写真;瓦堆積の一部北から

平安期の遺溝

藤原宮期の東第三堂以外に、平安時代の建物や溝・土坑状の遺構を多数検出しました。藤原宮は廃絶後、一部は荘園となることが知られており宮所(みやどころ)庄、高殿(たかどの)庄、飛騨(ひだ)庄など)、今回の調査区内に荘園の管理施設が置かれていた可能性もあります。

出土遺物

出土量の大半を占めるのは、東第三堂に葺いた瓦と、9〜10世紀の土器です。土器のなかには「忠富(ただとみ)」と墨書された土師器(はじき)や、 緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器もありました。また、皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)の7番目「長年大宝(ちょうねんたいほう)」(嘉祥(かしょう)元年<848>初鋳(しょちゅう)10枚が紐に通された形のまま出土しています。

2004年3月
奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
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