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下田遺跡

説明文周辺遺跡分布図調査地点位置図遺構配置図用語解説

下田遺跡
現地説明会資料
2003年6月8日
堺市教育委員会

1.はじめに

堺市教育委員会では、日本軽金属株式会社の依頼を受けて、下田町20-1に所在する同社大阪工場跡地内において、商業施設建設に伴う下田遺跡の発掘調査を、平成14年11月18日より実施しています。調査面積は、7784平米です。
下田遺跡は、石津川下流の左岸に位置する弥生時代から古墳時代にかけての集落跡で、地形的には石津川によって形成された氾濫平野上に立地しています。遺跡内では、これまでに3度の発掘調査が行われており、竪穴住居や溝・墓・自然流路などが、
蓋(きぬがさ)形木製品・威儀具(いぎぐ)といった特殊な木製品や多量の土器とともに見つかっています。また、府道常盤浜寺線建設に伴う調査では、調査中に銅鐸が発見されるという貴重な成果もあがっています。周辺の遺跡としては、遺跡の北西に隣接して、弥生時代のほぼ全期間をとおして石津川流域の中心的な集落として栄えた拠点集落である四ッ池遠跡が、また南側には弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落跡である鶴田町遺跡や鳳東町遺跡があり、本遺跡との密接な関係が推測されています。さらに、石津川を挟んだ対岸の三国ヶ丘台地と呼ばれる段丘上には大山古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする百舌鳥古墳群が広がっています。

調査成果

今回の調査地点は、氾濫平野の中でも周囲よりやや高まった自然堤防上に位置しています。調査ではこの微高地にのるかたちで、弥生時代中期と古墳時代前期の集落跡を確認しました。以下、時代ごとに略述します。

弥生時代中期(紀元前1世紀代)

竪穴住居7棟をはじめ墓・溝などが見つかりました。竪穴住居はすべて円形で、なかには直径約8.8mの・大型住居(竪穴8)もありました。また、中央の土坑を挟んで一対の柱穴が配置される松菊里(ソングンリ)系の住居(竪穴3・8〉も確認されました。墓はいずれも長方形を呈しており、このうち長辺2.2m・短辺0.9mを測る墓3は、土の堆積状況から木の板を組み合わせた棺を納めた木棺墓であった可能性があります。また、長辺2.3m・短辺1.1mを測る墓1は、木棺が納められていたかどうかはわかりませんが、墓穴内に2個体の土器が置かれていました。溝はすべて調査区を南から北に縦断する形で概ね平行して検出されました。いずれも長さは100m以上におよぶ長大なものです。溝7は、幅釣5m・深さ約1.6mで、今回検出した中では最も大規模なものでした。溝1〜6は、溝7よりは比較的小規模ですが、断面が」もしくはU字形を呈した大型の溝です。一部が重複していることからすべてが同時に築かれていたわけではありませんが、2〜3条程度は同時に機能していたのかもしれません。また、溝7より西側では、溝以外の弥生時代の遺構は見つかっていないことから、これらの溝は居住域とそれ以外を区画する意味合いを持っていたものと考えられますが、他の用途については今後の課題です。

古墳時代前期(4世紀代)

竪穴住居42棟をはじめ掘立柱(ほったてばしら)建物や溝・井戸などが見つかりました。竪穴住居はすべて方形で、一辺が約8mの大型のもの(竪穴41)や火事で焼けたもの(竪穴19)もありました。竪穴内の施設では、柱穴や炉/かまど状遺構のほかに、床面の周囲を一段高くしたベッド状遺構と呼ばれる施設や床に穴を掘った貯蔵穴を持つものもありました。掘立柱建物は21棟が見つかりました。出土遺物が少なく建物の時期ははっきりとはわからないのですが、柱配置や重複関係、他の遺構の年代観などから、ほとんどの建物が古墳時代前期の範囲に納まるのではないかと考えています。溝は、大部分のものが弥生時代の溝とほぼ同じ場所に重複して見つかりました。おそらく弥生時代の溝が窪地として名残をとどめていた場所を掘り直して、再度溝として利用したのでしょう。しかし、用途については今のところよくわかっていません。井戸は全部で7基見つかりましたが、木製の井戸枠を持つもの(井戸4)もありました。また、井戸1からは完全な形の土器が見つかりました。水に関わる祭祀行為が行われていたのでしょうか。

まとめ

これまでに行われた調査成果を考え合わせると、弥生時代中期の集落の居住域は、南北200m以上、東西30m以上の南北に細長い範囲となり、存続期間は紀元前1世紀頃の約100年間と想定されます。しかし、この時期の集落は、遺構の密度が必ずしも高くはなく、散在的な小集落だったと考えられます。ところで、今回の調査で見つかった複数の溝を掘削する土木作業量は、この小集落だけでまかないきれるものとは考えがたいので、これらの土木工事は、地理的にも近接しており、当時石津川流域の中心的な集落であった四ッ池遺跡の集落と、共同で行われたと想像されます。こういった状況を考えると、弥生中期の下田集落は、四ッ池の集落と非常に密接な関係にあったといえるでしょう。もしかすると、下田集落は大きな意味では四ッ泡集落の一部だったのかもしれません。
この後、下田遺跡では人跡が途絶えますが、弥生時代の後期後半になってJR線の南側を中心に、再び集落が営まれるようになります。今回の調査では、古墳時代前期の集落を確認しましたが、これはJR南側の集落が北に移動してきたものと考えています。
その規模は少なくとも南北200m以上、東西100m以上に及び、面積にして約2万5千平米の居住域を持っていたと考えられます。なお、今回の調査ではこの時期の建物として、竪穴住居・掘立柱建物合わせて計63棟を確認しています。存続期間は長く見ても30〜40年程度の短期間だったと考えられますので、この間2〜3回程度の建替えが行われたと仮定すれば、今回の調査範囲で同時に存在していた建物は約26棟程度となります。居住域全体の面積が調査区の約3倍程度と考えられることから、集落全体では同時に80棟近くの建物が存在したと推測できます。
したがって、今回見つかった集落は、約2万5千平米の土地に80棟近くの建物が存在するという大規模な集落だったことがわかりました。しかも、これまでに行われた調査では、権威の象徴とされる
蓋形木製品や環状の飾りが付いた威儀具・など、およそ一般の集落では縁のない遺物が見つかっていることから、今回見つかった大集落は、石津川流域を中心とする和泉地域北部の在地首長を擁した集団の中心集落に位置付けられると考えられます。このことは、弥生時代後期を境に、石津川流域の中心地が四ッ池遺跡から下田遺跡へと移動したことを物語っており、弥生時代から古墳時代への過渡期における在地首長の動向を知る貴重な成果となりました。そして、この在地首長の後裔はやがて百舌鳥古墳群の造営に深く関わっていくことになるのでしょう。
今回の調査では、古墳時代前期の中心集落の居住域がほぼ判明するという貴重な成果を得ることができました。しかも、結果として、居住域の釣1/3に及ぶ広大な面積を調査した形となりました。しばらくの間、この場所に暮らした人々に思いをはせ、古代の村へタイムスリップしてみてください。

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