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双築古墳

030201(財)桜井市文化財協会

双築(なみつき)古墳発掘調査現地説明会資料

1.はじめに

 双築古墳は桜井市街地のすぐ南側、安倍山丘陵(標高126.5m)にある桜井公園内に位置しています。安倍山丘陵の周辺には古墳時代前期の大型前方後円墳であるメスリ山古墳が存在するほか、艸墓古墳や文殊院西古墳などの終末期古墳が多く分布しています。この安倍山丘陵の北側部分にある桜井公園内には、中世から近世にかけて城郭が存在したことが知られていました。このほか古式の横穴式石室と渡来系の遺物を持つことで注目される桜井公園2号墳(文献1)など、古墳時代中期後半から後期にかけての古墳が多く存在すると考えられます。さらに丘陵の北側斜面では弥生時代後期の土器片が採集されており、同時期の高地性集落の存在が推定されています(文献2)。
 今回調査された双築古墳は、安倍山丘陵の北端に派生する小さな尾根の先端部に立地しています。

【文献】

(1)伊達宗泰・小島俊次1959「桜井市児童公園の古墳」『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報』11奈良県教育委員会
(2)増田一裕1977「安倍山丘陵における弥生集落と古墳群の再検討」『古代学研究』85 古代學研究会

2 調査の概要

 桜井公園の整備に先立って、平成14年7月25日から調査を行っています。双築古墳のある尾根付近ではこれまでに古代から中世の火葬墓に伴うと考えられる遺物が確認されていますが(文献1)、その地形から以前より古墳の存在が推定されていました。今回の調査では主に墳頂に相当する部分と、その北東側の平坦地に調査区を設定しました(図2)。その結果古墳時代前期と後期に属する埋葬施設と、古墳の周囲を巡ると考えられる溝状の遺構が確認されました。

3 双築古墳(双築1号墳)の概要

墳丘

墳丘の南側以外で崩落が著しいため、墳形を確認することは難しくなっています。しかし現状の地形が径20m余の円丘状を呈していることから、円墳である可能性が高いと考えられます。墳丘南側の山塊に接続する部分では墳丘の周囲を巡ると考えられる周溝状の遺構が確認されており、これを基準に復元される墳丘規模は径約30mです。墳頂部および墳裾(すそ)部の調査区からは円筒埴輪形象埴輪の小片が検出されていることから、墳丘上に埴輪が配列されていたことが推定されます。なお葺石(ふきいし)や段築の存在は確認されていません。

中心主体部(古墳時代前期後半、4世紀後半 図3、図8)

 墳頂のほぼ中心に位置しています。概要は以下のとおりです。

【墓墳(ぽこう)】 棺をおさめるために掘られた穴。南北方向に長さ7m、幅2.4mの規模をもち、2段に掘り込まれる。
【埋葬施設の構造】 墓壙底の磯敷きの上に粘土槨(ねんどかく:棺を粘土で包む埋葬施設形態)を設ける。棺床部分や棺の西側では多くの粘土を使うが、棺の東側では粘土の割合が少ない(図7)。
墓壙内の段上にも礫がめぐらされる。
【棺の形態】 刳抜式の木棺(図9)で長さ4.5m、幅60cm。棺内の北端と南側で赤色顔料が多く塗布されていた。
【副葬品】
図4
盗掘坑からガラス製玉41点、緑色凝灰岩製管玉6点、琥珀製勾玉1点、鉄剣片が1点出土。
棺内南側では竪櫛1点、
鉄剣3点、やりがんな3点、針状鉄製品1点、刀子1点、袋状鉄斧1点、環状の装飾品と考えられる遺物1点などが埋葬当時の位置で検出されている。
【排水構】 墓壙西側から墳丘西側へとのびている。幅約40cm、深さ約1mで、その底には小磯の上に大き目の石を蓋状に置いており、暗渠状の構造をなしている。

4 双築2号墳の概要

墳丘

双築古墳(1号墳)の北東側墳裾において確認されました。周溝状の遺構から推定される墳丘規模は径約8mです。この周溝内から鉄鎌、鉄鏃、刀子などの鉄器類のほか、複数の須恵器が検出されています。これらの遺物から5世紀末〜6世紀初頭の時期に築かれた古墳であると考えられます。

双築2号墳埋葬施設

双築2号墳の墳丘上で確認されました(図2)。墓壙は東西方向に長さ3.4m、幅1.5mで、双築古墳中心主体部と同様に2段に掘り込む形態です。長さ2.8m、幅60cmの割竹形木棺がおさめられ、棺内からは鉄製の刀子とやりがんなが1点ずつ検出されました。なおこの埋葬施設は2号墳墳丘上にあるものの、墳丘の中心から大きく西に偏った位置につくられています。このことから2号墳墳丘に伴う埋葬施設であるかどうかは現状では判断できません。この遺構の時期については、現在整理中の鉄器の詳細な検討を待って再考したいと思います。

5 周辺埋葬施設の概要

竪穴式石室(古墳時代後期前半、6世紀前半)

 双築古墳墳丘の北東側の調査区で3基確認されています。調査区東南端の石室(1)は長さ4.3m、幅2.5mの竪穴の墓壙に、内法長3.lm、幅0.8mの縦長の平面プランをもつ石室が構築されています。後世のかく乱のために多くの石材が抜き取られていますが、床面からは須恵器短頸壷無蓋高杯土師器壷などが検出されました。
 調査区中央付近で確認された
石室(2)は、内法長2.2m、幅約1mをはかり、人頭大の石材を積み上げて構築されています。床面からは須恵器提瓶と銀製の耳環2点、木棺の緊結に使用されたと考えられる鉄釘が13点検出され、その配置から推定される木棺規模は約150cmです(図5)。このほか石室内部に崩れ落ちた土の中から士馬、銅銭などが出土しており、埋葬以降に何らかの祭祀がおこなわれたと考えられます。
 調査区北端に位置する
石室(3)は内法長1.4m、幅0.5mと小さいものです。遺物は検出されませんでしたが、石室(1)・(2)と同時期に構築されたものと考えてよいでしょう。

6 確認された古墳の評価について

 双築古墳の位置付け 今回確認された双築古墳は径30mという、円墳としてはやや大きな墳丘をもつ古墳である可能性が高くなりました。奈良県内の古墳時代前期に属する30m以上の円墳は、いずれも奈良市域や葛城地域など奈良盆地の北部・西部に集中しており、桜井市などの奈良盆地東南部で確認されたのは本例がはじめてになります(図6)。
 こうした古墳時代前期の規模の大きな円墳は、いずれも4世紀後半頃の古墳時代前期後半につくられたものです。この時期奈良盆地内では、大型前方後円墳が多くつくられる地域が桜井市域や天理市域などの盆地東南部から、奈良市域や葛城地域などの盆地北部・西部へと移動する状況がみられます(図8)。この背景には政権内での勢力変化が考えられていますが、双築古墳は盆地東南部の勢力が衰退した時期の、当地における首長墓と考えられます。双築古墳はそうした勢力変化後の奈良盆地東南部を考える上で重要な資料ということができます。

墳裾の竪穴式石室

 双築古墳墳丘の北東裾で確認された3基の竪穴式石室はいずれも古墳時代後期に属するものと考えられ、双築古墳とは1世紀以上の時期差が存在します。しかしこれらは双築古墳墳丘を巡るように配置され、双築古墳被葬者を意識したものと考えることができるでしょう。このように前期古墳の墳裾に後期の埋葬施設が設けられる例は珍しいといえます。また古墳時代後期の小規模な竪穴式石室は遺物を伴うことが少なく、その性格はあまり明らかにされていません。今回確認された竪穴式石室からは比較的多くの遺物が検出されており、その性格を考える上で重要な資料になると考えられます。

図2 遺構配置図
図3 中心主体部実測図
図4 出土遺物実測図
図5 竪穴式石室(石室2)実測図と出土遺物
図6 古墳時代前期の円墳分布
図7 中心主体部断面模式図
図8 奈良盆地における前期古墳の変遷 ※字が小さいため、省略しました。
図9 木棺推定模式図
表1 奈良県内の主な古墳時代前期の円墳(20m以上)

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