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2002/11/23の現説資料
石神遺跡 出土木簡 飛鳥資料館展示

石神遺跡第15次調査出土木簡について配付資料の説明文具注暦木簡他の木簡の解釈

石神遺跡出土木簡の展示
二〇〇三年二月二七日(木)〜三月九日(日)
*月曜休館 休館日に展示替えを行ないます

石神遺跡第15次調査出土木簡について

遺構概略図(S=1:200)を別ウィンドウに表示

 石神(いしがみ)遺跡は明日香村大字飛鳥に位置し、須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)が出土したことにより早くから知られている。須弥山石の存在と、東北地方産の土器が出土することから、『日本書紀』斉明紀の須弥山をつくって蝦夷(えみし)らをもてなした」という記事との関連が指摘され、斉明朝頃(六五五〜六六一)の遺構は「飛鳥の迎賓館」ともいわれる。だが遺跡の性格はそれだけにとどまらず、七世紀代を通じて造営が繰り返されたことが確認され、飛鳥の中でも大規模な遺跡のひとつである。 今回の調査地は斉明朝期の建物群よりも北側で、中心施設の外側にあたる。発掘の成果によると、調査地は斉明朝頃は沼地だったらしい。天武朝頃(六七二〜六八六)に整地され、L字形の大溝【東西大溝・南北大溝2】などがつくられた。整地の際のゴミ捨て穴【土坑1】もある。大溝の水は西から東、さらに北へ流れる。藤原京の時代(六九四〜七一〇)に全体が再び整地されたが、その際のゴミ捨て穴【土坑2】もある。この頃には、南北方向の道路と側溝【南北大溝1】、石敷をともなう井戸、掘立柱の【建物1】などがつくられた。遺跡が廃絶した頃、【建物1】の東側柱列に重なって【南北溝1】が掘られた。天武朝頃に溝であった場所にも細い溝【砂溝】が一条できた。この溝はきちんとした溝というより、水が流れやすいところに自然にできた流路のようである。
 木簡は一〇〇〇点以上確認しているが、洗浄・整理の進行にともなって今後増加する見込みである。天武朝を中心とする時期の木簡が大半を占める。全体的な傾向として、荷札木簡が多く(7〜14)、東海地方、なかでも美濃国に関するものが目立つ(2、10〜12)という点が指摘できる。また、交通に関係するもの(1、2)、仕丁や御垣守に関係するもの(3、4、6、7、11)、七世紀の日本語の表記を示すもの(15)など、注目すべき木簡が多い。また、16は現存する日本最古の具注暦である。飛鳥池遺跡出土木簡群に次ぐ七世紀木簡の一大資料群であり、古代国家の形成期を解き明かす重要な手がかりとなるだろう。

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