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入江内湖遺跡の発掘調査
米原町域の縄文遺跡
入江内湖西野遺跡の調査成果

調査結果のポイント周辺遺跡分布図調査位置図/トレンチ平面図
トレンチ3 溝1遺物出土状況図トレンチ4 杭列出土遺物図/写真出土遺物写真

財団法人 滋賀県文化財保護協会
主任技師  北原  治

1.はじめに

 入江内湖西野(いりえないこにしの)遺跡は滋賀県坂田郡(さかたぐん)米原(まいばら)町大磯(いそ)ある縄文時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡です。遺跡は佐和山が入江内湖と接するあたりに位置しています。今回報告する調査は国道8号線の迂回路として計画された県道彦根米原線の工事に伴って平成10・11年度に行った調査です。この調査では縄文時代と古墳〜平安時代の川跡や井堰とみられる構造物がみつかりました。また、当時の人々が使っていた土器や石器、木器、金属器など様々な道具も出土しました。
 この遺跡は昭和24年に京都教育大学小江慶雄教授によって実施された確認調査(第1次調査)で発見されました。この調査では表土直下より弥生土器、土師器、須恵器が混在した状態で発見されています。その後、昭和50年に矢倉川改修工事に先立って滋賀県文化財保護協会が実施した発掘調査(第2次調査)では、丘陵北端から張り出した舌状の微高地上で古墳時代中期の掘立柱建物3棟やドングリ貯蔵穴、溝数条などが検出され、内湖へ向かって傾斜する北側斜面から弥生時代前期〜古墳時代後期の大量の土器や石器、木器などの遣物が出土しました。遺物の中には装身具の管玉、小玉のほかに原料とみられる碧玉の原石も出土しており、交易によって原石を手に入れて玉作りを行っていたことが判りました。
 第3・4次調査は、町道建設に伴って実施された試掘調査(第3次調査)と発掘調査(第4次調査)です。第4次調査は平成2年に米原町教育委員会が今回の調査地のとなりで行ったもので、第2次調査で検出された集落の続きや当時の内湖の汀線を確認しました。古墳時代前期〜中期の掘立柱建物や土壌、溝などがみつかり、古墳時代初め頃の土師器を中心に縄文時代早期前半〜中世までの土器・石器などが出土しました。今回の調査は第5次調査となります。

2.調査の概要

 調査はまず、全長1kmの工事区間に25ヶ所の試掘坑を入れて遺跡の広がりを確認しました。試掘によって遺構や土器などが確認された3地点(約1,400平方メートル)について5つの調査区(トレンチ)を設けて発掘調査を実施しました。

トレンチ1

 トレンチ1は、調査地対象地の西端(小字九瀬町)にあたり、長さ24m、幅9mの範囲を調査しました。ここでは地表下1.4m(標高83.9m)で縄文時代後期中葉〜後葉頃の土器を含んだ青灰色砂礫層・育灰色シルト層(厚さ20cm)を確認しました。
 この地層は洪水堆積層(流路1)の底にたまった層であり、南東方向からの水流によって形成されたものです。また、直上に堆積した青灰色粗砂礫層からは少量の土器とともに石皿や磨石が出土しました。層毎に出土した土器の差が見られないことと、土器の年代幅が500年前後におよぶことから、一度どこかに堆積していた土器がその地層ごと流されて再堆積した地層とわかりました。また、新しい時期の遺物が混じらないことと、土器の表面がほとんど磨耗していないことから、土器の年代に近い時期に比較的近距離から流されてきた遺物と考えられます。
 当時の地形は後世の堆積によって覆われているため、ほとんどわかりませんが、トレンチ1の東側30m地点に設けた試掘トレンチや西側の第4次調査(米原町教委実施)ではこの洪水堆積層がみつからず、トレンチ1周辺が両側に比べて低かったことがわかりました。水流の方向(南東より北西方向)からみて、浅い谷地形であったと考えられます。
 このトレンチでみつかった遺物はほとんどが土器であり、縄文時代後期中葉(3,500年前頃)の−乗寺K式土器〜後期後葉(4,000年前頃)の宮滝式土器があります。これらの土器は煮炊きに使用したナベ(深鉢)がほとんどでしたが、土瓶のような形の注口土器もみつかりました。また、宮滝式土器27点のうち5点(18%)には、米原周辺にみられない角閃石粒が入った土で作られており、他地域と活発な交流があったことがわかりました。(※サイト管理者注:この土は大阪・生駒とのこと)

トレンチ2・3

 トレンチ2・3はトレンチ1の東200m地点(小字西平田)に位置し、幅19m、深さ1.8mを測る古墳時代〜平安時代前半頃(1,100〜1,700年前頃)の大溝(溝1)が検出されました。溝からは杭などを用いて造られた井堰とみられるシガラミ遺構が4基確認されました。
 シガラミ1はトレンチ3の溝中央部で、南北7m、東西l.2mの範囲で検出されました。溝を斜めに縦断するように築かれており、トレンチを越えて北側へ伸びています。遺構は杭と杭を縫うようにからませた横材からなる骨組みの前面に土手を造って水流を制御する構造物でした。杭の傾き(頭部を20〜40度西に傾けて打ち込まれている)などからみて、南東側からの水流を制御するために造られたものと判明しました。土手は敷葉工法といって、粘土と小枝を交互に積上げることによって強度を増す工法が用いられていました。これは大阪府の狭山池堤(7世紀)や亀井遺跡の堤防(5世紀)などに用いられており、古代の先端技術といえます。構造材の杭は12本確認され、樹種はアカガシ亜属やシイノキ属、サカキ、スノキ属、マツ属などが使用されていました。遺構の時期は構築土直下より出土した杯(小皿のような土器)などから判断して、平安時代前期(10世紀頃)とみられます。
 シガラミ2は遺存状況が良くないため不明な点が多いものの、シガラミ1とほぼ同様の構造をとる遺構であり、1段階古い時期のものと思われます。杭にはカキノキ属、ネジキが使われており、部材に木製農具の横鍬が転用されていました。 シガラミ4は北側に傾斜して打ち込まれた杭の前面(南側)に直径1〜4cmの横材を密に並べて水流を制御する構造をとる東西方向のシガラミ遺構です。残存長1.8m、幅0.6m、高さ0.5mを確認しました。この遺構では粘土と小枝からなる構築土層は確認されませんでした。機材に接して出土した須恵器の高杯などからみて、6世紀末〜7世紀初頭頃と思われます。
 溝1からは平安時代以前の様々な土器や木製品、鉄器、石器などが出土しました。特にシガラミ周辺からは割れていない土器や朱を入れたミニチュアの壷、刀の形をした木製品や斉串など神様へのお供えに使ったとみられる遺物が集中して出土しました。
 溝1からは表面が磨耗した少量の縄文土器・弥生土器が出土しています。これらの遺物は上流から流されてきたものであり、直接この地点の評価に関係のない資料ですが、見方を変えると、ほとんど実体が知られていない佐和山東側の平野の遺跡を推察する上でまたとない資料といえます。縄文土器は早期の繊維土器332や中期前葉の船元式土器334、中期末の土器337、晩期後葉の突帯文土器338〜340などが出土しています。また、弥生土器は中期初め頃〜後期までの土器が確認できました。

トレンチ4

 トレンチ3の約200m東側(小字横田)で面積約300平方メートルを調査しました。ここでは2条の川跡(流路3・4)と流路4に伴って杭列1が検出されました。
 流路4は幅20m、深さ1.2m、検出長10mを測る川跡で、杭列との関係から縄文時代後期と弥生時代〜古墳時代、古墳時代の3時期の川が重複した遺構であることが判りました。
 第1期の流路の時期は放射性炭素年代測定からBC.1,410年(縄文時代後期中葉頃)と判りました。この川からは縄文人が好んで食べていたトチノミやオニグルミなどの木の実が多数出土ており、この近くに彼らの生活を支える森があったのでしょう。
 第2期流路は杭列1を伴った弥生時代〜古墳時代の川でしたが、その後の川などによって削られてしまい杭列が残るだけです。杭列1は180本以上の杭を密に打ち込んだ遺構で、北西方向に13m以上、幅0.6mの範囲で確認しました。東側からの水の流れを防ぐため、西側に傾けて打ち込まれていました。使われていた木の種類を調べてみたところ、28分類群もの樹種が確認できました。杭列の中で木の種類は特にまとまりがなかったことから、周辺に生えていた木々を手当たり次第伐採して使ったように見えます。ただ、当時の木製農具に多用されたアカガシ亜属や祭祀具・建築部材などに用いられたヒノキなど有益な樹種には太い木を伐採して使用していないことから、自分達の領域の資源を有効に活用していった人々の生活の知恵を伺うことができました。
 このトレンチ周辺でも縄文時代早期後半や晩期後葉頃の縄文土器が出土しています。

3.まとめ

 今回の発掘調査はこれまで調査例が少なかった江内湖南岸の湖辺部において、延長1kmの範囲にわたり遺跡の分布を探ることができ、縄文時代から平安時代にかけての人々の暮らしの一端を知ることができた。
 今回の調査では縄文時代の明確な遺構は確認できなかったものの、水流により運ばれてきた早期から晩期までの縄文土器が出土しました。これらは縄文時代に佐和山東側の平野で人々が長期に渡って生活していたことを意味しています。
 入江内湖周辺では早期前半頃から西岸・北岸域の磯山城遺跡や筑摩佃遺跡において、本格的に人々が暮らし始めたことが知られていますが、入江内湖西野遺跡でも第4次調査で早期前半頃の押形文土器が出土しており、南岸域の湖辺部においてもほぼ同じ頃から人々の営みあったといえます。また、トレンチ4周辺で出土した条痕文土器は磯山城遺跡が湖辺部に拡大する早期後半頃(湖南地域に大型の貝塚が造られはじめる時期)に属します。この時期は漁業など湖周辺での活動が活発に行われ始める時期といわれており、平野の中央付近に設けられたトレンチでの出土はこうした流れを示唆するものといえるでしょう。
 トレンチ1で出土した縄文時代後期中葉〜後葉の遺物は佐和山丘陵の北縁部付近にこの時期のムラが存在したことを示しています。この想定地は、丘陵西側にある縄文時代後期・晩期の拠点的な集落である彦根市松原内湖遺跡と1kmほどしか離れていません。2つのムラは立地からみて内湖を主要な生活の場としていたと思われるものの、前面に広がる内湖が異なるため、漁猟活動などの領域が分かれていた可能性が考えられます。この松原内湖遺跡では、後期を通して活発な集落活動が想定できますが、次の晩期前半頃の遺物がほとんどみられず、晩期後半になって再び遺物が増加することが知られています。このことから、晩期前半段階に集落が断絶ないし、著しい衰退に見舞われたと思われます。一方、トレンチ1でも晩期の土器がみられないことから、2つのムラは同じ頃に衰退していったといえます。佐和山北縁部の集落は、松原内湖遺跡の分村的集落や入江内湖での漁猟のためのキャンプサイトなど、松原内湖遺跡の集落と密接な関係にあったのでしょう。
 トレンチ2・3で検出した溝1は大きさからみて入江内湖に注ぐ中規模河川であったと考えられます。ここでみつかった井堰とみられる4基のシガラミ遺構は、古墳時代後期から平安時代中期までほぼ同一地点に繰り返し構築されており、安定して機能させるため、長期にわたり維持管理や祭扉巳が行われたことがわかりました。

調査結果のポイント周辺遺跡分布図調査位置図/トレンチ平面図
トレンチ3 溝1遺物出土状況図トレンチ4 杭列出土遺物図/写真出土遺物写真

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