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石神遺跡

説明文周辺位置図A期遺構配置図遺構概略図B期遺構配置図C期遺構配置図木簡参考資料

平成14年11月23日
飛鳥藤原 第122次
石神遺跡発掘調査(第15次)現地説明会資料
独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所 飛鳥藤原宮跡発掘調査部
調査期間:平成14年7月〜  調査面積:約600平方メートル

◆石神(いしがみ)遺跡の調査

 石神遺跡は明治35・36年(1902・03)に須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)が掘り出されたところで、その地の小字「石神(いしがみ)」から命名されました。奈文研は昭和56年(1981)に実施した石造物出土地の全面調査を皮切りに、継続的に発掘調査をおこなってきました。今回はその15回目となります。

◆これまでの概要と今回みつかった遺構

 石神遺跡は7世紀代を通じて造営が繰り返された遺跡で、遺構は重複関係や出土遺物の年代から、大きくA〜Cの3時期に分かれます。

A期(斉明朝) B期(天武朝) C期(藤原宮期)
図3 遺構変遷図


A期 7世紀前半〜斉明(さいめい)朝(655−661)ころ
<昨年までの成果図2長大な建物で囲われた西区画・東区画、石敷広場と井戸などが整然と配置されています。漏刻(ろうこく)台の水落(みずおち)遺跡ともつながっています。須弥山石や東北地方の土器の存在と、『日本書紀』の須弥山をつくって蝦夷(えみし)らを饗宴した記事との関連などから、飛鳥の迎賓館ともいわれます。
<今回の遺構(図3・4)>建物や石組溝など明確な遺構はみつかっていません。砂と粘土の堆積が広がっており、沼のような低湿地だったと考えられます。前回までの調査区とはまったく異なる状況です。
B期・7世紀後半、天武(てんむ)朝(672−686)ころ
<昨年までの成果(図5)>多数の建物と塀があり、北側には大型建物を逆L字形に配置しています。性格ははっきりしませんが、大規模な施設があったようです。
<今回の遺構(図3・4)>南側に東西大溝があり、陸橋の北には
池状遺構と東西溝1・南北溝1があります。池状遺構は東西9m、南北10m以上。もともと沼状だったところに盛土をして陸橋をつくっています。砂や粘土が厚く堆積しています。東西大溝は幅3m、深さは現状で最大40cm。いずれも土器(どき)、木器(もっき)、木簡(もっかん)など多量の遺物が出土しましたが、炭や灰、燃えさし、骨、桃の種子などと−緒にゴミとして捨てられた状況です。焼けている木簡もあります。遺構はいずれもC期の整地土で覆われていました。
C期 7世紀末、藤原宮(ふじわらきゅう)(694−710)のころ
<昨年までの成果(図6)>南には塀で囲まれた方形区画(一辺71m)があり、その東に溝をともなう南北方向の道路が通っています。方形区画は藤原宮の東方官衙(とうほうかんが)地区にある区画(66×72m)と同様な官衙的施設とみられます。整地土からは鉄鏃(てつぞく)などが多数出土しています。
<今回の遺構(図3・4)>B期の池状遺構を埋め立てて全面的に整地し、
石敷と石組井戸、南北溝2、建物1が造られます。調査区東側には南北大溝が掘られます。建物1は2間×3間の小さな南北棟建物で、南北溝2を埋めた後に造られています。南北大溝は幅4m、深さ1mの素堀溝です。過去の調査でも検出していましたが、今回の場所ではとても幅が広く、深くなっています。南北大溝からは多量の土器、木器、木簡などが出土しました。B期の池状遺構と同様、捨てられたゴミが溜まっている状況です。

◆今回みつかった遺物

 もっとも注目されるのは多量の木製品と木簡です。普通なら消滅してしまうこれらの遺物は、豊富な地下水によって空気から遮断されていたおかげで1,300年以上も腐らずに残っていたのです。
《土器・瓦》 最も多い遺物は土器で、石神遺跡では莫大な量を消費していたことがわかります。漆(うるし)が付着した土器が多いのが特徴です。少数の硯(すずり)に加えて、転用硯(てんようげん)も多数出土しました。瓦はわずかしかぁりません。檜皮(ひわだ)が多くみられるので、近辺に檜皮葺(ひわだぶき)の建物があった可能性が考えられます。
《木器.金属器など》 
南北大溝と、東西大溝池状遺構の埋土から多数出土しました。木製品は斎串(いぐし)・形代(かたしろ)・曲物(まげもの)・漆器(しっき)・匙(さじ)・火きり臼(うす)・糸巻・櫛・独楽(こま)・琴柱(ことじ)・経軸(きょうじく)などがあります。金属製品は銅製人形(どうせいひとがた)・手斧(ちょうな)などがあり、他に砥石(といし)も出土しました。日常品とともに斎串(いぐし)、人形(ひとがた)などの祭祀関係遺物が目立ちます。
《木簡》 
南北大溝と、東西大溝池状遺構の埋土を中心に、約560点の木簡(うち削屑(けずりくず)約370点)が出土しました。木簡の入った土は研究所に持ち帰って洗浄中であり、その数はさらに増加すると考えられます。全般的に荷札木簡(にふだもっかん)が多いという特徴があります。<詳細は3枚目を参照>

◆まとめ

 A期、斉明朝の迎賓館といわれる施設は、昨年発掘した大きな石組東西溝と東西塀が北の端であったことを確認しました。南北の距離は塀どうしで測ると約180mです。今回の調査地は施設の外にあたり、当時は沼のような場所でした。建物群が存在する範囲がはっきりしたのは大きな成果です。
 つぎのB期、天武朝ころには池状遺構と東西大溝などがつくられます。昨年みつからなかったB期の施設の北限は今回も検出されなかったので、前回と今回の調査区の間にあるのでしょう。出土した大量の木簡はこのころの文字史料として貴重な発見といえます。木簡の内容からB期の施設の具体的な姿を再現するのは困難ですが、官衙的施設があったことは確実です。あらためて天武朝ころの石神遺跡が非常に重要な遺跡であることが明確になりました。
 C期には
石敷と井戸をともなう施設が南北大溝の西側に造られていますが、性格などは不明です。しかし藤原宮期にも、道路とともに何らかの施設が存在することが明らかになりました。
 今後、北側の水田を発掘すればB期の池状遺構の広がりが確認されるでしょう。そこからさらに多くの遺物が出土すれば、天武朝ころの石神遺跡の実像を解き明かす手がかりが見つかるかも知れません。またC期の遺構もどのような性格の施設なのかがわかるでしょう。次年度以降の調査は、石神遺跡と小墾田兵庫、小墾田宮との関係や、古代山田道の解明などにも大きな影響をあたえるに違いありません。

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