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大塚遺跡

説明文空から眺た南部郷調査区位置図2・9区遺構概略図
みなべの遺跡(弥生〜古墳時代)調査区周辺の旧地形

大塚遺跡現地説明会資料
県道上富田南部線道路改良工事に伴う第2次発掘調査
2002年10月26日(土曜日)
財団法人 和歌山県文化財センター

所在地      和歌山県日高郡南部町東吉田 地内
調査機関     和歌山県文化財センター
調査面積     2,399平方メートル
調査指導     和歌山県教育委員会

1.はじめに
 黒潮の海と緑深い山にかこまれた南部郷は、和歌山県のほぼ中央に位置し、全国一の梅の生産地として、また良質の炭である 備長炭の生産地としても知られています。近年、高速道路の延伸工事に伴い南部町・南部川村では大規模な発掘調査が実施され、徳蔵地区遺跡では、縄文時代中期の集落が確認されたほか、西関東から中部高地の土器である勝坂式土器や東海地方の土器、また、長野県和田峠付近で産出したと思われる黒曜石が出土するなど海上ルートを通じて開かれた地域であったことが明らかにされました。
 また、この南部郷は弥生時代の遺物として有名な銅鐸が数多く出土していることでも著名な地域であり、さらに中世の平城として全国屈指の規模をもつ高田土居城跡が存在するなどまさに遺跡の宝庫とも言うべき地域と言えましょう。
 今回の調査はそのうちのひとつ、大塚遺跡と呼ばれる主に古墳時代からはじまる集落跡の調査でした。大塚遺跡については、これまで2回発掘調査が実施されており、古墳時代前期・中期の竪穴式住居が10棟以上見つかっています。また、この集落は立地条件が良かったようで、その後の奈良・平安時代を経て中世から現在に至るまで集落としての機能を維持してきたことなどが判明しています。

2.調  査
 今回の調査は、県道上富田南部線の拡張工事に伴うもので、図1に示したように八丁田圃の東側を縦断する県道中芳養南部線との交差点付近を中心に4箇所の調査を行いました。(調査区については、現況の水田区画を基に1〜9区と細分し仮称しています)
 このうち3・4区では上層遺構として近世の貯蔵施設と思われる直径1m前後、深さ80cm前後の土壌を20基ほど検出しました。この中には周囲を厚さ3cmほどの漆喰で固めたものもいくつか認められました。また、写真5のように大きな甕を16個据え付けた跡も見つかっています。時期的には江戸時代の終わり、幕末に近い頃のものと考えられますが、残念ながらこのような貯蔵施設が何に使われていたかは明らかにすることができませんでした。
 また、下層遺構としては、古墳時代前期の方形の竪穴式住居が1棟見つかっています。大部分が調査区の外にあるため規模についてはよくわかりませんが、おそらく一辺5m前後になるものと考えられます。
 3区では飛鳥〜奈良時代と思われる径3m、深さ50cmほどの土壌のほか、円形の竪穴式住居1棟、方形の竪穴式住居2棟が見つかっています。
 2・9区は今回の調査区の中ではもっとも遺構の残りが良いところで、ここでは2間四方の掘立柱建物1棟、円形の竪穴式住居1棟、方形の竪穴式住居2棟などが見つかっています。
 このうち円形の住居址(竪穴住居1)は直径約5m、深さは残りの良い部分でも15cm前後です。中央に径50cm、深さ10cmほどの炉跡があり、赤く焼けた炉床の上にはうっすらと炭層が残っていました。また、柱穴は径15cmほどで、4本確認されています。出土遺物が極めて少なく、時期を断定することはできませんが、その形状などから古墳時代のごく初め頃の可能性が高いものと考えています。
 方形の竪穴住居はいずれも一辺5.4mほどで、出土している遺物から古墳時代前期のものと考えられます。このうち竪穴住居址2としているものは、深さ約40〜60cmと残りが良く、また、出土遺物も極めて多い状況でした。遺物は布留式土器(中〜新段階)と呼ばれる一群ですが、中には甕の底部のように平底の痕跡を残すなど一時期古い様相を色濃くとどめている土器が散見されます。この事象はこの地域の地方色と言えるかもしれません。
 また、特筆すべきこととして、これらの土器に混じって陶質土器の壷の破片が多く出土しています。陶質土器というのは、その当時、朝鮮半島の南部でつくられていた土器で、日本の須恵器の源流と言われている硬質の焼き物です。今回出土している物も薄く、非常に堅密に焼き締められたもので、おそらくやや胴膨らみの球形を呈し短い口線がつくタイプのものと考えられ、時期的には4世紀のものである可能性が高いと思っています。

3.まとめ
今回の調査で検出した竪穴住居の数は、合計7棟です。まだ調査の途中であり、個々の住居址の詳細な時期については断定できませんが、方形の住居址については概ね古墳時代の前期(4世紀)のものと考えて大過ないものと思われます。
 大塚遺跡のこれまでの調査でもこの時期の住居は数棟確認されていますが、大部分はこの時期より少し前の古墳時代でもごく初めの頃のものでした。今回の調査結果から、大塚遺跡では古墳時代の初頭に集落が営まれはじめ、その後も順調に集落が維持されていたことを物語るものと言えましょう。
 今回の調査区は図4にも図示したように南東から延びる丘陵の縁辺部に当たっており、集落の範囲からみてもこの辺りがはずれであったことが想像されます。このような場所においても7棟に及ぶ竪穴住居が見つかったことは、集落の中心部ではかなりの戸数があったものと推定されます。おそらくこの時期の南部郷においては、大塚遺跡はもっとも大きな集落であったものと思われます。
 集落の規模とともに注目されるのは、今回の調査で陶質土器を確認したことです。陶質土器は畿内の中心部においてかなりの数が確認されていますし、和歌山県では紀ノ川流域の六十谷遺跡・鳴神遺跡はじめ、吉備町の野田地区遺跡でも出土しています。また、南部町でもこれまで片山遺跡でわずかに1個出土していますが、これは5世紀のものと考えられています。その意味で本例のように古墳時代前期の土器に伴って出土したこと、南部町という畿内中心部から遠く離れた地で確認されたことの意義は大きく、おそらく、縄文時代同様、この時期においても南部町は海上ルートによる開かれた地域であったことを如実に物語るものと言えましょう。

説明文空から眺た南部郷調査区位置図2・9区遺構概略図
みなべの遺跡(弥生〜古墳時代)調査区周辺の旧地形

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