大正5年(1916年)刊行の『奈良県史蹟勝地調査會第三回報告書』に、当時の奈良県技手 西崎辰之助によって「條ノ古墳」として報告された本墳は、従来必ずしも正当に評価されてきたとはいえませんでした。それは、墳長・石室・石棺の規模いずれもが、にわかには信じがたいほど大きなものであること、また、家形石棺の蓋側面の縄掛突起が通常2つずつであるのに対し、略報では3つずつ計8つとされており、ほかにほとんど例がみられないことなど、資料としての信用性を疑問視する人が多かったからです。その後、古墳と周辺地形が著しく改変される中で、古墳の所在そのものも判然としなくなっていましたので、このたびの調査は石室の所在と現状を確認するために着手しました。
狭い盗掘孔が閉塞石部分にあって、そこから身体を擦りながら石室内に入って眼前に広がった世界は、まさに驚くべきものでした。西崎報告の通りの巨大な石室と石棺が厳然とそこに存在したからです。
石室内には、かつて水がたまっていたことを示す成水層がまだ厚く堆積しているために、正確な数値はわかりませんが、現状での横穴式石室の玄室規模と、そこに納められた家形石棺の大きさは表に示す通りです。條ウル神古墳の石室・石棺はその型式から6世紀後葉の築造とみられ、それぞれの大きさの比較のため、ほぼ同時期の古墳も例示しておきましたが、いずれも石室・石棺とも最大もしくは最大級と呼ぶに相応しく、例えば、見瀬丸山古墳は欽明天皇、石舞台古墳は蘇我馬子の墓とする説が有力です。條ウル神古墳の場合には巨勢(許勢)氏の盟主をあてるのが妥当で、許勢臣稲持や比良夫ら数人が候補となるものと思われます。
なお、墳形については、今後の調査に待たねばなりませんが、確かに西崎報告の通り、100m級の前方後円墳となる可能性はあります。このたびの調査はここまでで、現地説明会後すぐに埋め戻します。今後、機会を改めて墳形や内部主体の調査を実施したいと考えています。
横穴式石室(玄室)の規模の比較(m)
| 家形石棺 蓋 の大きさ比較(cm)
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古 墳 名
| 所在地
| 長 さ
| 幅
(奥壁)
| 幅
(玄門)
| 高さ
| 古墳名
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所在地
| 全長
| 幅
| 高さ
|
見瀬丸山
| 橿原市五条野町
| 8.3+α
| 4.1+α
| 3.6+α
| 3.9+α
| 見瀬丸山(前棺)
| 橿原市五条野町
| 289(275)
| 145
| 63
|
石舞台
| 明日香村島ノ庄
| 7.6
| 3.4
| 3.4
| 4.8
| 條ウル神
| 御所市條
| 278(270)
| 147
| 53
|
條ウル神
| 御所市條
| 7.1+α
| 2.4+α
| 2.7十α
| 3.8+α
| 植山(東石室)
| 橿原市五条野町
| 270(260)
| 158
| 62
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塚穴山
| 天理市勾田町
| 7.0
| 3.0
| 3.0
| 不明
| 赤坂天王山
| 桜井市倉橋
| 264(255)
| 170(159)
| 55
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十αは埋没のため不明
| ()内は縄掛突起を除く数値
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