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シシヨツカ古墳 現地見学会 資料

説明推定復元図石室略測図

大阪府南河内郡河南町加納地内所在
シショツカ古墳 現地見学会資料
平成14年3月9日
大阪府教育委員会 文化財保護課

はじめに

 本古墳は、平成11年度に農地整備事業に伴う試掘調査で発見され、小字名からシシヨツカ古墳と名付けられました。
 西200mには6世紀後半から築かれた加納古墳群が、東300mには終末期古墳として著名なアカハゲ古墳やツカマリ古墳があります。丘陵を越えた北側は王陵の谷ともいわれている磯長谷で、向山古墳(「用明天皇陵」)・高松古墳*1(「堆古天皇陵」)・上城古墳(「聖徳太子墓」)・一須賀古墳群等があります。
*1サイト管理者注:多くの文献では推古天皇陵は「山田高塚古墳」となっていますが、「高松古墳」と記載しているものも一部あります。ここではあえて原文のママとさせて頂きます。

1.シシヨツカ古墳
2.アカハゲ古墳
3.ツカマリ古墳
4.加納1号墳
5.同2号墳
6.同5号墳
7.同6号墳8.同7号墳

調査結果

 墳丘は中世以降の開発で一部改変されていますが、保存状態はきわめて良好です。現在の水田の石垣、里道などは、古墳の段やテラス、周濠、平坦面、貼石などを反映しています。古墳の形と規模、構造などは次のとおりです。
 周濠を含む古墳の規模は、東西約60m、南北約53mに及びます。墳丘は東西約34m、南北約26m、高さ約5mを測ります。墳丘は3段築成で、表面には貼石を施しています。上段は東西約15m、南北約14m、中段は東西約24m、南北約18mです。各段のテラスは基本的に東西側が南北側より広く造られていますが、これは西及び南に傾斜する土地に古墳が築かれたためと考えられます。周濠は墳丘を巡っていて、北側の濠底には平らな石が敷かれています。南側周濠外には東西約60m、幅約5m、高さ約2.2mのテラス状施設が付きます。テラス状施設の裾部でも大きな石が検出されています。貼石かもしれません。
 墳丘は、3〜5センチの厚さで土を水平に薄く敷き均して叩き締めた版築(はんちく)という方法で築かれていて、非常に硬く締まっています。
 主体部は、ほぼ正確に南に開く花崗岩の切石積横穴式石室で、奥室、前室、羨道からなります。終末期古墳に特有の構口式石榔あるいは石棺式石室と呼ばれる形状で、全長約11.4mです。奥室は長さ約2.5m、幅約1.2m、高さ約1.4m、前室は長さ約3m、幅約1.4m、高さ約1.5mです。奥室は奥壁1枚、左右両側壁それぞれ2枚、天井石1枚。前室は左右両側壁各3枚、天井石は1枚だけ残っています。奥室入り口の左右両柚には扉石を受けるためと考えられる浅い刳り込みがあります。奥室の壁や天井石の隙間には漆喰が残っています。後世にひどく荒らされたために、床にも石が敷かれていたかどうかはよくわかりませんが、前室の入り口近くには凝灰岩を加工した幅20cmの仕切り石が2枚置かれています。羨道は長さ約5.9m、幅約1.5m、高さ約1.5mで、側壁は自然石が用いられています。側壁は南に向かって後々に低くなり、1段目墳丘斜面に至ります。羨道部は大きめの自然石で塞がれていて、閉塞石の外側は土で埋められています。奥室と前室の床面から、大小の礫と一部加工した石英粗面岩の板石および凝灰岩の破片が出土しています。床石や扉石の一部かもしれません。
 羨道を埋めた土の上部で、2点の須恵器の甕が左右に並んで出土しました。出土状況から羨道を埋めた後に置かれたものと考えられます。

出土遺物

 遺物は、閉塞石内側から前室にかけて漆塗籠棺亀甲繋文(きっこうつなぎもん)銀象嵌円頭大刀柄頭(つかがしら鉄製挂甲、金銅装馬具及び飾り金具、銀製帯金具、金糸、ガラス玉、須恵器などが、散乱した状態で出土しています。これらの遺物は6世紀代、後期古墳の出土品と井通するものが多く、きらぴやかな副葬品が収められていたことがわかります。

まとめ

 シシヨツカ古墳は、墳丘や周濠が従来知られている終末期古墳より大規模で、墳丘の規模や形状、出土遺物から最古級の切石積横穴式石室の古墳と考えられます。その時期は7世紀初頭と維定されます。

説明推定復元図石室略測図

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