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下田東遺跡・下田東古墳 現地説明会 資料

|概要説明|周辺地図古墳平面実測図

 
平成14年1月27日
香芝市教育委員会
ニ上山博物館
遺跡名 下田東古墳・下田東遺跡
調査地 香芝市下田東3丁目地内〈調査対象には大字「狐井」領域も含む。)
調査目的 「五位堂駅前北第二土地区画整理事業」(香芝市施工事業)に伴う事前発掘調査
調査対象面積く開発面積) 175,69O平方メートル
調査開始日 平成13年8月30日
現在までの調査面積 5,900平方メートル
調査の方法 今年度は試掘調査を実施し、本調査の必要の有無・範囲等を確認する。試掘調査は来年度も継続の予定
地理的位置 馬見丘陵の西南端に接する奈良盆地の低地
調査前の現状 一面に水田・畑がひろがる。遺物は水路改修などの際に採集されていたが、多数の遺構を伴う遺跡の痕跡に乏しかった。
出土したおもな遺物 埴輪、鉄製刀子、土器(縄文時代晩期・古墳時代〜中世)、石器(縄文時代晩期)、瓦、磚(せん)、凝灰岩切石、斎串(いぐし)など
検出されたおもな遺構 古墳1基、旧河道1条、水路2条、溝・大小多数、掘立柱跡群、井戸2基(1基は現代のもの)、素掘小溝群く耕作痕)、足跡群である。

素掘小溝群は、調査した範囲の全域に分布する。出土した土器片から平安時代末(12世紀)〜中世(13〜16世紀)で、条里制に基づいた当時の水田経営の実態解明の手がかりとなる。付近から人や動物(牛など)の足跡が見つかっている場所もある。ただし、あまり明瞭でない。

 古墳は、現在1基を検出した。後円部の直径約16m、前方部幅約10m、前方部の長さ約5mで墳丘全長約21mの帆立貝型の前方後円墳である。この墳丘の周囲を幅約3.5〜5mの周濠がとりまく。この集濠内(深さ約80cm)から、もとは墳丘に林立していた埴輪が崩落して多量の破片として出土した。多数の円筒埴輪のほか馬形埴輪2体、人物埴輪2体鶏形埴輪2体、家形埴輪1軒が今のところ確認されている。香芝市初の形象埴輪群である。なお、後円部側に渡り堤を有する。
 古墳の時代は、埴輪群と一緒に出土した須恵器から5世紀末(杯TK47型式)〜6世紀後半(杯TK43型式)と堆定される。帰属時期に幅があるのは、築造時期が5世紀末で6世紀後半まで古墳祭祀がおこなわれていたと考えたい。ここより南西へ約800mにある、填丘全長約140mの狐井城山古墳(5世紀末〜6世紀前半と堆定される)との関係を考えるうえで重要な古墳となろう。なお、平安時代前期(9世紀)ごろにこの古墳は墳丘が削平された(墳丘部上に平安時代前期の幅約50cmの溝を検出)ため、後円部にあったであろう埋葬施設等は破壊された後である。

 旧河道は、幅10〜20m、深さ約1.5〜2mで南東から北西へ向かって流れている。途中で北流するようだ。河道内に堆積した砂の中から多数の土器(土師器・須恵器)や(丸瓦・平瓦・軒丸瓦・鴟尾)等が出土した。時代は飛鳥時代〜平安時代と考えられる。飛鳥時代のものが多そうだ。その他、磚や斎串なども出土した。※「磚」は「土」へんに「専」の字ですが、Macintoshでは表記できないため「磚」とします(辞書で調べると間違いではないそうです)
 出土遺物は、川に流されてきた水磨の痕跡をあまりとどめず、凝灰岩の切石(焼けている)も出土することから、近辺に古代寺院が眠っている可能性が高い。瓦の時期は7世紀後半と考えられる。

 は、幅約2m、深さ約60cmで、多量の土器や瓦が出土した。時代は、奈良時代〜平安時代で、寺院跡に関係する溝(土器や瓦の廃棄溝)であろう。

 水路は2基見つかっており、水路1は幅約10m、深さ約1.5mで、古墳の水を流した水路のようである。遺物の出土量はそれほど多くはないが、円筒埴輪も出土している。
 水路2は、幅約8m、深さ約2mで、出土した遺物から飛鳥時代(〜平安時代?)と思われる。水路内には水の流れに直交させた堰を設けている。

 堀立柱跡群は、旧河道の西方に一辺50〜60cmの柱穴が多数分布している。柱そのものは直径20cm程度でそれほど規模は大きくないが、一部柱穴が並んでおり、柵や掘立柱建物が何棟か建っていたようである。現在、明確にはなっていない。時代は古墳時代(〜平安時代?)と想像される。付近には井戸も検出された。

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