兵庫津遺跡第62次調査 現地説明会 資料

2014年(平成26年)6月28日(土)
神戸市教育委員会

1.はじめに

戦国時代も終わりに近づいた16世紀中頃、信長による天下統一が進むなかで、それまでみられなかった新しいかたちの町が出現します。

「戦」に備えるため、山や丘などに築くことの多かった城(城郭)を、交通が便利な平地に造り、商人や職人たちを住まわせて商売などを盛んにする一方、戦いの時には町ぐるみ要塞化して防御をするという戦国城下町の誕生です。

今回の兵庫津遺跡第62次調査では、ちょうどこの時期に造られた兵庫城の城下町の街路や町屋がみつかりました。

2.兵庫津遺跡について

兵庫津は、古くは「大輪田泊」と呼ばれ、平安時代末には平清盛によって日宋貿易の拠点とされたことで有名です。また中世には、瀬戸内海の海運さらに日明貿易の主要港として重要な役割を果たしました。

戦国時代末に織田信長の勢力下で築城された兵庫城と兵庫津の町は、慶長伏見地震(1596年)で甚大な被害を受けたとされています。しかしその後、江戸時代には港町や西国街道の宿場町として順調に発展し江戸時代中ごろには、人口2万人を数えるほどになります。

3.調査の概要

今回の調査は、江戸時代初期にさかのぼると考えられる街路やそれに伴う3〜6時期にわたる町屋群と井戸、溝、石組み遺構、などが見つかりました。

また、それ以前のものでは14世紀〜15世紀の溝や土坑なども見つかり、調査区の西端部では15世紀〜16世紀の護岸施設が発見されました。しかしこの遺構が港湾設備に関連するものであるかどうかは調査中であり、詳細については不明です。

主な遺構は江戸時代の街路が9本、火災に遭った焼失建物が50棟以上見つかりました。

江戸時代初期(177世紀初頭)から江戸時代後期(18世紀後半)にかけての主要な街路などは、江戸時代中期の『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』とよく合致していて、ほとんど同じ位置に同じ規模でくり返し造り替えられていることがわかりました。

町屋の中には、物作りを生業としていた跡もみつかりました。鍛冶屋の炉跡や大量のトリガイの貝殻が出土したことから、その加工揚があったこともわかりました。

街路と町屋の関係が広範囲にわたり具体的に調査で確認されることは非常にめずらしく、個々の町屋建物についても火災で焼け落ちた状態が良好に残されているため、当時の建物の構造や生活の様子を知る上で貴重な発見となりました。

兵庫津遺跡一兵庫城跡一発掘調査地点位置図

発掘調査地点位置図

空から見た発掘調査区とその周辺
空から見た発掘調査区とその周辺

現在の地図と元禄絵図の合成図

現在の地図と元禄絵図の合成図
元禄9(1696)年に兵庫津奉行が尼崎藩に提出した「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」を、現存する寺院などを基準に、現在の地図と重ね合わせました。

検出遺構配置図

検出遺構配置図

遺構は1600年代前半の様子ですが、町屋の規模は模式的に表現しています

街路

元禄絵図に書かれた位置に重なるように、9本の街路を確認しました。街路には町屋が軒を並べて連なる様子がわかります。街路の幅は狭い所で1m、兵庫城の正面である大手道に当たる街路では幅が9mありました。街路は上を何層にも突き固めて作られていました。

街路1と2

街路5

町屋

建物は、何度も火災に遭いながらも同じ場所で建て替えを行い、長年に渡って住みつづけたことがわかります。今回の調査では、各時期に建て替えられた建物の総数で50棟以上を確認しました。焼失建物の時期は、江戸時代初期から江戸時代後期に及びます。

町家1〜5

火災で倒れた柱と壁
焼けた文机・硯・硯箱
焼けた柱と畳
火災に遭った町屋からは文机やその上に置いてあった硯、畳、壁材といったものが焼けた土や炭の中からそのままの状態で出土しています。その結果、土間や床、台所といった建物の聞取りも推測でき、当時の生活の様子が具体的に伝わってきます。

掘調査範囲と摂州八部郡福原庄兵庫津絵図
(部分、個人蔵、神戸市立博物館寄託)(不許転載)

掘調査範囲と摂州八部郡福原庄兵庫津絵図

関屋町水帳絵図(部分、個人蔵、神戸市立博物館寄託)
(不許転載)

関屋町水帳絵図

町家9


町屋9の家の中の様子を、右下の図を参考に想定復元しました。

島上町座古屋久太夫居宅図 江戸時代後期


(個人蔵、神戸市立博物館寄託)
2004年神戸市立博物館「よみがえる兵庫津」掲載の図をトレース

鍛冶屋の炉跡

トリガイの殼の集積

今回の発掘調査および現地説明会の開催にあたっては、イオンモール株式会社のご協力を得ました。

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