桜井茶臼山古墳

桜井茶臼山古墳の調査

はじめに

桜井市外山に所在する茶臼山古墳は、南北に中心軸が通る全長200m・後円部径110m・同高24mの前方後円墳であり、国史跡に指定されています。古墳時代前期(紀元3世紀後半〜4世紀台)に築かれた大型前方後円墳のなかでは、竪穴式石室が完存し、かつ見ることのできる最古の古墳でもあります。

昭和24年に、盗掘を契機として最初の発掘がおこなわれました。それから60年が経過した本年、埋め戻された埋葬施設の詳細を調査し、木棺を取り出して保存処置をおこなうことを目的として、国史跡の現状変更許可を得て、再発掘を実施しました。

今年の1〜3月に予備調査をおこない、後円部頂の遺構配置を確かめるとともに、竪穴式石室が60年前と同じ姿を保っていることを確認しました。そして8月から本調査を開始し、石室の全容を明らかにした上で,天井石の一部を取り除いて木棺を取り出しました。


桜井茶臼山古墳周辺図(1/25,000)

調査の成果

埋葬のための施設は、岩山を削りだした後円部の中央に、長方形の墓壙を掘り、竪穴式石室を造って木棺を納め、薗跡に石室上を埋め立てて方形壇を築き、「丸太垣」をめぐらせたものでした。

墓壙は南北11m・東西約4.8m・深さ約2.9mを測ります。墓壙の南辺西半部は、切り通しのように掘り下げられ、前方部から続く作業道となっています。石室に用いた石材や木棺は、そこから運び込まれたのでしょう。

竪穴式石室の内部は、水銀朱を塗布した石材に囲まれた南北に細長い長方体の空間であり、南北長6.75m・北端幅1.27m・高さ1.60m前後を測ります。基底は南北に続く浅い溝状になっており、板右を二・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していました。木棺は腐朽と盗掘による破壊で原形を失っていましたが、遺存した棺身の底部分は、長さ4.89m・幅75cm・最大厚27cmを測る長大なものです。

埋葬にあわせて副葬された器物には、玉枝をはじめとする玉製品や、鉄製・青銅製の武器類のほかに、多数の銅鏡があったようです。しかしいずれも盗掘によって撹乱・破壊され、置かれていた位置や数量は不明です。

埋葬の終了後、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して、石室は閉じられました。いずれの天井石も長側面を平坦に加工して、隣りあう石材と並びよくしています。その最大のものは、長さ2.75m・幅76cm・厚さ27cmあり、推定重量は約1.5tです。さらに天井石は、ベンガラを練りこみ、赤色にした粘土によって被われていました。粘土の上面には直径5〜7cmの円形の窪みがあり、先端の丸い棒でつき固めたことがわかります。

粘度による被覆の後は、墓壙の上部を埋め、さらに周囲より高く土を盛り上げて、方形の壇を築いています。その規模は、南北長11.7m・東西幅9.2mを測り、高さは1m未満と推定されます。壇の上面は、板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壷が並んでいたようです。また壷の内部の広場では、火を使用した儀礼のおこなわれたことが、周辺に流れ落ちた炭から推定されます。

こうした儀礼に前後して、方形壇の裾には、幅・深さともに1.4m前後の溝(布掘り掘り方)が掘られ、その中心に沿って、直径約30cmの柱が合い接するように立て並べられていました。布堀りの外周規模は、南北長13.8m・東西幅11.3mを測ります。布堀りの総延長から、柱の総数は約150本程と推定されます。また柱は1.3m程埋め込まれています。古建築の知識を参考にすると、地表にはその倍ほどの高さがあったと考えられます。この「丸太垣」ともいうべき堅牢な掘りが、石室とその上部の方形壇を外界から保護していました。四角く立ち並ぶ「丸太垣」の姿は、埴輪の方形配列と共通するものであり、古墳には庭を配置する起源を考える上で、重要な資料となるでしょう。


墳丘と調査区(1/2,000)

まとめ

桜井茶臼山古墳を再調査したことで、初期の大型前方後円墳の竪穴式石室や、埋葬後に石室上に築かれた方形壇の具体的な姿、さらにはそれらを保護する「丸太垣」というこれまでに知られていなかった施設の存在を確認できました。奈良盆地東南部を基盤とする社会集団を中心として、日本列島の広範囲を版図とすることになる国家が形成されはじめた古墳時代前期、その時代社会の中心にいた王者の墳墓の詳細が明らかになったことで、古墳時代研究がさらに進展すると期待されます。さらに当研究所では、今後は出土遺物の分析を進め、なるべく早い時期に公開できるよう、努力していきます。

最後になりましたが、現地見学会の開催には、(財)由良大和古代文化研究協会から多大なる支援を賜りましたことを、ご縮介しておきます。

本資料は、(独)日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究A19202025)『東アジアにおける初期都宮および王墓の考古学的研究』(研究代表者 寺澤 薫)の成果に基づいて作成しました。

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