新薬師寺旧境内遺跡 現地説明会資料

奈良教育大学

※このページの文、図、写真は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

奈良教育大学では、特別支援学級校舎の改築に伴う埋蔵文化財調査を、2008年8月28日(木)から行ってきました。表土直下には明治時代後半に建てられた旧陸軍聯隊の建物の煉瓦造り基礎や日本庭園跡が検出され、下部から奈良時代に造られた基壇の残存部とその化粧石組の最下段延石列(凝灰岩製)と瓦の堆債する雨落ち構が検出されました。延石列は西側に続き、北側には基壇の高まりが続くため、さらに調査区外へと西方に続きます。基壇の東南隅では、延石列の北側後方にさらに東へ延びる地覆石も残存する基壇化粧石組の凝灰岩列が検出されました。陸軍聯隊地の側溝によって途中が切断されていますが、調査区外東へ延びています。地覆石には、羽目石がのる切れ込みが加工されています。南側前方の延石列は後方の列に取り付く形となり、後方の地覆石と延石の列が基壇本体の化粧石組であり、南側の延石列は張り出しており、階段部と考えられます。

調査地と周辺

大型基壇建物遺構配置と推定図(上部が北、グリッドは5m)

調査区の北半の中央から東側は基壇内になりますが、後世の削平により基盤になる段丘礫層が露出し、礎石およびその痕跡や遺物は残存しませんでした。南側は陸軍聯隊時の整地土と中近世耕作土内に多くの瓦とせん(土へんに専)が含まれ、削平の様相がうかがえます。

基壇は中央から東側は地山の削りだしで造られ、西側は基盤礫層が落ち込み表土につらなるやや軟弱な風化土となるため、方形の掘形に版築を施して地固め石を入れ礎石据付の地業を行っています。地固め石と版築を施す礎石据付掘形とは6基確認されました。

推定復元すると、中央3間が17尺(5.1m)、その両側4間が15尺(4.5m)、両端の1間が13尺(3.9m)となり、身舎で約59m、廂を入れると基壇と同じ約68mの幅が推定される。階段の推定幅約52mとなります。大仏殿に次ぐ大きさであり、南前面に特異な大きな階段をもつことが明らかになりました。

基壇は、延石下面から東側の地山削りだしの残存部の最上面の比高差が1.5mであり、階段部が1.8mで、延石を入れると2.2mあり、2m前後の基壇の高さが推定されます。基壇の高さ、壷地業の大きさ、南前方45m内に金堂に相当する基壇が存在しない、講堂とすれば東大寺の講堂より大きくなるなど、金堂と考えられます。また、新薬師寺の七仏薬師金堂は、『東大寺山堺四至図』では7間、東大寺要録には新薬師寺仏殿9間とあり、復元では身舎13間、内陣で11間となり、より大きくなります。

基壇東南部

南方溝 瓦留

〈基壇化粧石組 延石・地覆石(凝灰岩製)〉

延石は幅45cm。厚さ20cm、長さ約70cmから1m、構側は摩滅・風化して薄くなっています。地覆石は幅約40cm高さ礎石据付掘形、地固め石30cmあります。壇上積み基壇になります。凝灰岩は二上山(二上層群)産です。

〈雨落ち溝および玉石〉

幅60cm。深さは10cmほどで、底面は延石の下面とほぼ同じであるが、廃絶時は半分程度堆積し、上部は瓦や土器類が堆積していました。玉石は場所により大きさが異なります。岩石は基盤礫層の花崗岩、片麻岩、三笠安山岩を用いています。

〈礎石据付掘形と地固め石〉

最大のもので一辺2.9mあり、他は一辺2.7mあります。深さは最深で約50cmほど残存しています。版築を施し、人頭大の地固め石を入れてあります。桁行は4.5m(15尺)、梁間は3.9m(13尺)になると測られます。

礎石据付掘形、地固め石

〈出土遺物〉

遺物としては、雨落ち溝から創建時とみられる複弁八葉蓮華紋軒丸瓦(8世紀中頃)や複弁八葉蓮華紋軒丸瓦(唐招提寺同笵)、均整唐草紋軒平瓦(東大寺同笵)、奈良三彩片、乾漆像片とみられる木屎漆片などが出土し、8世紀から10世紀の遺物が出土しています。10世紀(962年)の廃絶の記録とよく一致します。

延石列、雨落ち溝、瓦出土状況

雨落ち溝、瓦溜

木屎漆片

〈新薬師寺略年表〉

天平勝宝3年(751)
聖武天皇病気平癒のため、新薬師寺で続命法による設斎行道が行われる(『親日本紀』)。
天平勝宝8年(756)
『東大寺山堺四至図』成立。新薬師寺堂として七仏薬師金堂が描かれ、この年までに建立。
天平宝字6年(762)
新薬師寺七仏薬師像の白毫、光背など制作『正倉院文書』)。東大寺造営修理塔寺料封一千戸のうち百戸が新薬師寺に施入され、塔・仏殿・僧坊等の供養修造料に充てられる(『東大寺要録』)。
天平宝字7年(763)
新薬師寺七仏薬師像の脇侍菩薩、神王像(十二神将働造立。この頃、金堂、壇院(壇所、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所(造丈木像所)の存在が記載される(『正倉院文書』)。
天平宝字8年(764)
酉塔の存在が知られる(『正倉院文書』)。
宝亀3年(772)
新薬師寺の総供養に東大寺から資材を借りる(『正倉院文書』)。
宝亀11年(780)
新薬師寺西塔焼失(『続日本紀』)。新薬師寺仏殿九間とあり、西塔以外に金堂・講堂も焼失とあるが(『東大寺要録』)、葛城寺の記事に引かれた記事の可能性あり。
応和2年(962)
大風により、七仏薬師堂(金堂)等堂舎傾倒、他に東大寺南大門等も倒壊(『東大寺要録』)。

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