瓜破遺跡 現地説明会

瓜破遺跡(UR07−1次)発掘調査 現地説明会資料
2007年(平成19)10月20日(土)
大阪市平野区瓜破東1丁目
大阪市教育委員会・大阪市文化財協会

※このページの文、図は、すべて当日配布の現説資料からの転載です。

※このページのカラー写真は、当日展示パネルです。

目次

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はじめに

大阪市教育委員会と財団法人大阪市文化財協会は、今年5月末から瓜破遺跡で発掘調査を行ってきました。瓜破遺跡はかつて弥生時代前期後半の土器様式が「瓜破式」と呼ばれ、また中国新代の貨幣である「貨泉(かせん)」が発見されるなど、近畿地方の代表的な弥生時代の遺跡として知られています。南から北へ延びる瓜破台地から河内平野にかけての東西1.7km、南北1.6kmが遺跡の範囲で、その時代は後期旧石器時代から江戸時代までおよびます。瓜破台地上には開析谷(馬池谷(かいせきこくうまいけたに)・東谷・西谷)が複数あり、今回の発掘調査地はそのうちの「西谷」の中に当たります。

図1 調査地の位置と周辺の遺跡
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図2 調査地の位置と周辺の遺跡
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図3 調査地の位置と条里・溜池
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発掘調査の成果

「西谷」はおよそ2万年前、最終氷期最寒冷期以降の侵食によって形成され、深さ5mにも及ぶことが明らかになりました。「西谷」を埋めた地層からは縄文土器や弥生土器、古代の瓦や■(せん:土へんに専)(一種のレンガ)などが出土しました。縄文時代以降の谷の埋積過程が良好に観察できるとともに、瓜破台地上でのさまざまな人々の活動の名残を垣間見ることができました。

西谷の地形と埋積状況「西谷」は瓜破台地を深く削り込んでいました。谷底の最も深いところには幅約4mの流路があり、流路底の標高は2.5m、現地表から探さ約5mありました。流路内には鬼界アカホヤ火山灰が壁にへばりつくように堆積しており、その上の砂礫層中から縄文土器が出土しました。また、この砂礫層より上の地層は細かな泥の堆積が続きます。周辺地域の発掘調査結果から、河内平野では洪水が頻発していたと考えられていますが、この谷は比較的穏やかに堆積していったことがうかがえます。今回の調査地は「西谷」の西半部にあたり、調査地周辺の現在の地形から、谷の幅は約50〜60mあったものと想定されました。

縄文土器

縄文時代早期末ごろとみられます。大阪市内では平野区長原遺跡で見つかった早期中葉の土器が最古で、生野区勝山遺跡・天王寺区宰相山遺跡で見つかった土器とほぼ同時期のものです。「西谷」の上流側に集落が存在していたことが推測されます。

竪穴住居

調査地の南西端で見つかりました。後世の撹乱(かくらん)や生物の擾乱(じょうらん)によって、住居北東部は失われてしまっていますが、南西側には周壁溝が、中央部には炉跡が残っていました。住居内には弥生土器や石器が残されており、弥生時代前期末〜中期初頭と思われます。

古代の瓦類

縄文土器や弥生土器のほか、奈良時代から平安時代と見られる大型の瓦や噂なども比較的良好な状態で見つかりました。調査地の南南東および南東には、古代の2つの寺院、瓜破廃寺と成本廃寺のの推定地があります。今回見つかった瓦には大型のものや完形の丸瓦があり、■(せん:土へんに専)も含まれていました。このことから、瓜破廃寺か成本廃寺のいずれのものか、または他にも寺院が存在していたか、現時点では明かではありませんが、古代寺院の存在を裏付けるものとなりました。

まとめ

今回の発掘調査は、今は埋もれてしまった「西谷」を初めて発掘した調査であり、「西谷」が長い歴史の中で埋積していったようすが明らかになりました。また、縄文土器や竪穴住居、古代寺院に係る資料が見つかり、この谷が各時代の歴史を物語る有力な手がかりを秘めていることも確認できました。

図4 調査地と西谷の位置関係
図4

図5 見つかった遺構の平面図

写真3 西区 住居址全景(南西から)
住居の南西部が残っていました。
住居内から見つかった土器から、弥生時代前期末〜中期初頭ごろと思われます。

写真4 竪穴住居内床面から出土した壷・甕・砥石

写真5 竪穴住居の中央炉跡(北東から)
炉の埋土から炭や焼けた土器、石器が見つかりました。

写真6 南区 西谷の状況(東から)
谷底から谷肩までは約1.7mの高低差があります。
谷底には上流から運ばれてきた流木が見つかりました。

写真7 東区 北壁地層断面(南から)
鬼界アカホヤ火山灰は、今から約7,300年前に鹿児島の南で大噴火した火山から、偏西風に乗って運ばれてきた火山灰です。
現地表下約4.5mで見つかりました。

写真8 東区東壁 生痕
カニなど甲殻類の巣穴の化石と見られます。縄文の海が近くまでやって来ていたと考えられます。

写真9 東区 谷底の流路(南東から)
流路は砂礫層で埋まっており、縄文時代早期末ごろの土器片が見つかりました。
また、砂礫層は鬼界アカホヤ火山灰を削り込んでいました。