纏向石塚古墳第9次調査

纏向石塚古墳第9次調査
一纒向遺跡第144次発掘調査の概要一
2006年3月25日(土)
桜井市教育委員会

図1 調査位置図(1/10000)

図1 調査位置図(1/10000)

  1. 1.纒向石塚古墳
  2. 2.纒向勝山古墳
  3. 3.纒向矢塚古墳
  4. 4.東田大塚古墳
  5. 5.箸墓古墳
  6. 6.ホケノ山古墳

I.はじめに

調査の目的

纏向石塚古墳は桜井市大字太田に所在する古墳時代初頭の前方後円墳です。この場所は古墳時代初頭〜前期の集落遺跡である纒向遺跡の中心よりやや西寄りにあたり(図1)、周囲には纒向矢塚古墳、纏向勝山古墳や東田大塚古墳が近接して存在します。纏向遺跡は初期ヤマト政権発祥の地として全国的に注目を浴びる遺跡ですが、その中でも纏向石塚古墳は最古の前方後円墳として注目を浴びてきました。桜井市では当古墳の重要性に鑑み、平成7年に市史跡に指定し保存と整備に努めてきました。そして今年の1月26日に纏向古墳群の一部として国史跡に指定されました。

纏向石塚古墳ではこれまで計8回にわたって調査を行い、古墳の形状を把握することに努めてきました。今回の調査では不確定部分の要素が強かったくびれ部周濠の外側のラインを明らかにし、石塚古墳にめぐる周濠の形状を確定する目的で、古墳の北東に当たる位置に第9次調査区を設けました。なお、調査は12月27日から行っており、調査区の面積は計約470平米となります。

纒向石塚古墳について過去の調査(図2)

図2 トレンチ配置図(1/1600)

図2 トレンチ配置図(1/1600)

図3 これまでの周濠想定ライン

図3 これまでの周濠想定ライン

纒向石塚古墳では、1971年に纏向小学校建設に伴う第1次調査が実施され、今回までに8次にわたる調査が行われています。このうち第3次までの調査で当古墳が周濠をもつ前方後円墳であることがわかりました。また、周濠内からたくさんの土器が出土していますが、この土器が庄内0式期(3世紀初頭)のものであると発表され、築造年代が古墳の発生期に遡る可能性があり、とりわけ注目されることとなりました。整備の為に実施した第4次調査では、前方部の形状や、周濠内に水を引き込む導水溝などを確認しています。この調査で導水溝から出土した土器は庄内3式期(3世紀中頃)のものであることや、墳丘盛土内から出土した高杯などから、庄内3式期築造との説が出されました。その後、第5〜7次調査によって墳形がほぼ明らかになっています。第8次調査では墳丘の断ち割り調査を実施し、この古墳のほとんどが盛土で造られていることや葺石や埴輪をもたないことが改めて確認されています。その際に盛土内から出土した土器片に庄内式の新しい段階のものや布留式期の土器片が混じらないことから庄内1式(3世紀前半)の築造の可能性が新たに指摘されました。よって、現在纏向石塚古墳の築造時期に関しては、西側周濠の出土土器を評価する考え方(庄内0式期 3世紀初頭)、盛土内出土土器を評価する考え方(庄内1式期 3世紀前半)と導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期 3世紀中頃)3説があります。

 

以上のような調査結果により、石塚古墳の規模をみると全長96m、後円部径64m、くびれ部幅15〜16m、前方部長さ2mになるということが判明しています。周濠は後円部では幅約20mの規模で墳丘を沿うように掘削され、前方部前面では幅5mの規模で掘削されていることが判明しています。また、周濠内部からは土器以外にも鋤、鍬、横槌などの農具、鶏形木製品・弧文円板・建築部材などの木製品が多数出土しています。

II.今回の調査の概要

図4 上層遺構図(1/160) 図5 下層遺構図(1/160)

1.古墳時代初頭の遺構(図5)

纒向石塚古墳周濠

纒向石塚古墳の周濠外肩の一部と思われる調査区南西方向に傾斜する落ちを長さ16mにわたって検出しました。検出面から調査区西端(周濠斜面)との比高差は約80cmです。調査区内の周濠内埋土は大きく3層に分かれ、上の2層は平安時代の土器が出土しており、下層から須恵器(古墳時代後期か)が出土しています。今回の調査区の範囲内でほ西側に向かって緩やかに傾斜する周濠東肩の一部しか検出していないため(周濠の底の埋土はさらに西側になるため)築造時期に関するような土器は出土していません。

この周濠外肩ラインの検出により、第4次−4トレンチと第5次−5トレンチで検出されている周濠外側ラインをほぼ直線的に結んだ状態となります。これにより纏向石塚古墳の周濠の形状は後円部では墳丘に沿うようにつくられ、くびれ部から前方部に向かって直線的に細くなるいわゆる馬蹄形に近い形状に復元することができました(図6)。これまで、最古段階の前方後円墳だと考えられている纏向遺跡内の纏向型前方後円墳の周濠の全形が判明したことは初めてであり、出現期の前方後円墳を考える上で貴重な事例となりました。

図6 周濠ライン復元図(1/800)

その他の遺構

古墳時代初頭にさかのぼる遺構として、方形周溝墓2基と土坑1基を確認しています。

方形周溝基1は調査区北西で東半分(北辺約1.5m分、東辺約8m分、南辺約4m分)を「コ」の字状の溝を検出しています。溝は幅0.9〜1.8m、深さ0.3〜0.4mです。この周溝の北東隅に庄内3式期(3世紀中頃)とみられる甕・壷・器台・高杯などの土器が折り重なって出土しました。この周溝墓は纏向石塚古墳周濠に接するように築造されていましたが、調査区内での切り合い(築造時期の前後関係)は不明です。

方形周溝墓2は、調査区東南隅で溝の西北辺釣6.5m、北東辺約2.4m分を「L」字状に検出しました。今回の調査区の南側の第4次−4トレンチで、この周溝基の続きが検出されていないことから、大きくても1辺5m前後の墳丘規模に復元できます。また、その位置は纒向石塚古墳の前方部東側の周濠に近接したものになります。溝内から出土した土器は布留0式期頃(3世紀後半)と思われます。出土土器により、纏向石塚古墳より後に築かれている可能性が高く、石塚築造後、周辺は墓域として利用されていたことがうかがえます。

纏向遺跡に所在する全長100m級の古墳の周濠に近接した形で方形周溝墓が確認された例は初めてですが、ホケノ山古墳では木棺直葬墓が前方部斜面から、東田大塚古墳からは周濠外肩から土器棺墓が検出され、周辺埋葬が行われたことがわかっており、纏向石塚古墳も同様な例になるかもしれません。

2.古墳時代中期の遺構(図5)

調査区北東では北壁中央から東壁へ「L」字状に延びる幅約5mの溝が検出され、調査を進めた結果、古墳の周溝の一部であることがわかりました(石塚東古墳)。周溝からは円筒・朝顔形埴輪の破片や木製品が出土しています。墳丘はほとんどが削平されていましたが、コーナー部分を2ヶ所で確認したほか、周溝内からは多く礫が出土しており、墳丘側には葺石があったと思われます。現段階では部分的な調査にとどまっているため、墳形を確定することは難しく、今後の調査に期待がかかります。なお、埴輪から築造時期は5世紀後半頃と考えています。 現在、纏向遺跡内の埋没古墳で中期古墳になるものには、現在の纏向県営住宅で検出したトリイノ前古墳(弧状溝)のみでほかは前期もしくは6世紀以降が多く、葺石が検出された例は初めてです。今後、当地域においての古墳時代中期における古墳の展開を考えることも重要な課題となりました。

3.平安時代の遺構(図4)

上層の遺構として、9世紀後半〜10世紀頃の井戸が2基見つかりました。このうち調査区南西に位置する井戸2は、およそ1.5mX1.3mの楕円形で深さ1.2m以上、内部に曲げ物が設置されています。曲げ物の上から数点の土師皿が出土していますが、そのうちの1点に「吉」とみられる墨書が残っていました。井戸1はこれよりひとまわり大きく、一辺180cmを測る方形の井戸で内部は未調査です。土師皿のほか挑の種が出土しています。

また、11世紀以降のものと考えられる柱穴を約120基検出しました。この中から、少なくとも2棟の掘立住建物と、塀と考えられる柱列を約12m分確認しています。調査区南端で見つかった掘立柱建物1は南北1間(釣3.9m)・東西4間以上(約7.8m)の東西棟の建物です。これに重なる位置で確認した据立柱建物2は、南北1間(約3.9m)・東西2間以上(約3.9m)の建物となります。柱列はこれらの南北筋と平行に設置されており、2棟の掘立柱建物に伴う施設の可能性があります。

4.第二次世界大戦時の遺構

調査区北西隅で直径20cm前後の丸太材を使用した打ち込み杭24本がほぼ十二角の形状で、規則的に並んだ状態で見つかりました。この辺りには、太平洋戦争末期に柳本の飛行場から兵隊が来て対空用の高射砲陣地を設営したという話が残っており、杭列もそういったものを国定するための台の基礎部分であったと考えられます。現状での規模は直径4.7m程度です。杭の先端は現地表の約50cm下から現われましたが、地元の方によると、この場所を開墾する際に杭が邪魔であったため上部を切断したということで、本来はもう少し長かったようです。戦時中の桜井市を語る貴重な資料と言えます。

III.まとめ

以上、今回の調査成果を概観してきましたが、最も大きな成果として、これまでの成果と合わせて考えると纏向石塚古墳の周濠の形状の全容が明らかになったことが挙げられます(図6)。箸墓古墳に代表されるいわゆる定型化した前方後円墳の成立以前に、九州から東北南部まで広範囲に広まったと考えられる纏向型前方後円墳の中で、現在最も初期段階に築造されたと考えられる纏向遺跡所在の纏向型前方後円墳の周濠の形態が判明したことは古墳発生期における周濠の形態を考える上で重要な成果です。今回の石塚古墳周濠復元に最も近い例として千葉県市原市の神門4号墳が挙げられます。様々な地域の纏向型前方後円墳を比較する場合、これまでは墳丘の形状中心に考えられてきましたが、今後は周濠の形状も含めて再検討する必要がでてきたといえます。また、一般に定型化したといわれる前方後円墳である箸基古墳へどのように発展していったかを墳丘や周濠の面まで含めて考えることができ、前方後円墳の成立と展開を考えるうえでも重要な成果です。